正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十回

 読み下しは「已(すで)に能(よ)く無明(むみょう)の闇(やみ)を破(は)すといえども 貪愛瞋憎の雲霧 常に真実信心の天に覆えり」です。サラッと訳すと「すでに迷いの闇は破られているのですが、むさぼり、とらわれ、いかり、にくしみの雲や霧が 常に佛の真実の信(まこと)の心(こころ)の天(そら)を覆(おお)ってしまいます」です。

 言葉に当たっていきます。

 無明闇 「無明」とは「明るく無い」で、人間が「自分自身を知らない」事を意味します。どれだけ「知識」が豊富であっても、人間存在の何たるかに暗いことが「無明」です。しかし同時に、それが「闇」と喩えられる事が大切です。なぜなら「闇」は、「闇という何か」が在るわけでなく、「光が無い状態」ですから、私たちの「無明」も、「私は無明である」と知らせる「智慧の光」に出逢えば、破れるのです。が、しかし、人間の心は一筋縄では行きません。貪愛瞋憎の心が残るのです。

 貪愛「貪」は「むさぼり」、「愛」は執着心。「自分の都合に合うものを際限なく貪り求めようとする心」です。ちなみに、「愛」という言葉は、一般には良い意味で使われますが、佛教では「執着心」を意味し、あまりよい意味では用いません。

 瞋憎は、瞋(いか)り、憎(にく)しみ。 自分の都合に合わないものに対して瞋りや憎しみの感情を抱いていくことです。そういった、人間の貪愛瞋憎の心が常に、雲や霧のように誠の心を覆う。というのですが、「雲霧」と喩えられる事も大切です。雲霧ですから、その上には必ず太陽があるし、いつか必ず晴れる。という「希望」も意味しているのです。

 「貪愛瞋憎」について、親鸞は、「貪愛の心 常によく善心を汚し、瞋憎の心 常によく法財を焼く。」と述べます。「善心」とは、私たちの「本当に自分らしく生きたい」という思い。「法財」とは「法に則った大切なもの」という意味で「私という存在」を表す言葉です。
 人間の心とは、本当に厄介なものです。自分らしく生きたいという、誠に純粋な心が、自分自身の貪愛の心によって汚され、私の瞋りや憎しみの心が、自分自身の存在を損なうのです。どういうことなのでしょうか。それは、「私もまた関係存在である」という事に暗いことから生じています。本来「私」は他の人や物事との関わりを抜きには生きていません。ところが、我々は、他者と切り離された「私」を妄想し、その「妄想の私」の「思う」ように生きようとすることが、「自分らしく生きる」事だと誤解しているのです。そうです。「自分らしく生きる」とは、すなわち「他者との関係を生きる」という事であり、そう気づいた時、闇に光が差し、雲霧は晴れるのです。



―――以上『顛倒』2017年8月号 No.404より ―――

      

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