印度西天之論家
中夏日域之高僧
顕大聖興世正意
明如来本誓応機
印度はインド、お釈迦様の生まれられた国。 西天は、今の中国の西域、シルクロード。中夏は、中華で中国の事。日域は、日本です。
これらの、それぞれの国に、七人の高僧がお出ましになって、念佛の教えを深めて来られたのです。 浄土真宗では、この方々を、「七高僧(しちこうそう)」と呼んで大切にしてきました。 瑞興寺の本堂の、向かって右側の余間に「七高僧の掛け軸」がおまつりされています。 ちなみにこの掛け軸は、元和3(1617)年に、東本願寺からお受けしたものです。
インドには、龍樹 ( りゅうじゅ) と天親(てんじん)が現れ、大切な大乗佛教の根本を説かれましたので、 このお二人を特に「論家」とお呼びし、「菩薩」とされます。
「高僧」は、中国の、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)、 日本の源信(げんしん)・源空(げんくう).龍樹、天親と合わせて「七高僧」です。 源空とは、正式名が、法然坊(ほうねんぼう)源空で、親鸞さまの直接の先生である、法然上人の事です。
これらの方々が、お釈迦様がこの世に、お生まれになった正しい意味が、 阿彌陀如来の本願を説かれるためである事を顕かにされ、 その阿彌陀如来の本願(本来の誓い)が、その願いを受ける、 それぞれの人間の状況に即応して誓われたものであることを、明らかにされたのです。
ちなみに、佛教では、人間の事を「機」という漢字で表現します。 親鸞さまは、「機の深信」とか「悪人正機」とか言われます。 機械の「機」が、なんで「人間」を表すのかというと、 どんな機械でも、それは外からの作用で動きます。 同じ様に、私たちも、周りの環境とか、周りの人が言った言葉とかいう、 外からの作用によって、どうにでも動き出し、 どのようなモノにでもなってしまう存在だという意味です。 親鸞さまは、『歎異抄』で、「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」、 すなわち「そんな状況になれば、どんな恐ろしいことでもするのが人間だ」と言われます。 これだけだと、何か希望が無いようですが、「機」は、「機会」の「機」でもあります。 「人間」とは、「チャンスを持った存在」なのです。 何にでも成るという事は、素敵な者にも成り得る存在でもあるという事なのです。
―――以上『顛倒』2018年3月号 No.411より ―――