顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
読み下しは「難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ」です。これを、親鸞さまは次のように和讃されます
龍樹大士世に出でて
難行易行のみちおしへ
流転輪廻のわれらをば
弘誓のふねにのせだまふ
要点は、「難行易行」です。難行とは、自分自身が厳しい難しい修行を積んで、覚りを開こうとする生き方です。聖道門と呼びます。
易行は、自らの修行に依らず、阿彌陀佛の大きな修行にお任せして、阿彌陀佛の本願力に依って、覚りを得ること、そしてその手段は「ナムアミダブツ」と口にする事ですから、とても易しい「修行」なのです。浄土門と言います。
龍樹大士は、聖道門を、陸路をてくてく歩いて進むような難しい道だと譬え、浄土門を舟に乗り流れや風で自然と運んで下さる事に譬えて、浄土門を勧められたのです。
易行は、易しい道ですから、とても結構な事です。が、ここで人間の問題が出てきます。易しい道で救われる、覚りを得るなんて事は、あり得ないと思ってしまうのです。難信と言う課題です。
難しい事をして偉くなる事は、人間の常識で解りやすいでしょう。アメリカのメジャーリーグで活躍する大谷や田中やダルビッシュは、とても普通の人が出来ない、難しい事を成し遂げるからこそ、皆から賞賛され、高い報酬も受け取れるわけです。
それを「ナンマンダブツ」と言うだけで救われるなんて、誰が信じられますか。それで、浄土宗の方々は、法然さんの教えから離れて、念佛を難しい修行にしてしまわれたのです。京都に百万遍という地名がありますが、あれがそうです。百万遍念佛するのです。「ナムアミダブツ」と口にするだけで救われる事は、とても信じられないですが、百万遍も唱える事は、とても難しい修行ですから、その行の力によって救われると、なっていったのです。せっかく、龍樹さまが勧めて下さる事を、受け取る事が出来ない、私たちの側の問題が大きいのです。
最後に、陸路と水道の譬えについて、瑞興寺の事を。今の本堂は230年前に建てられましたが、それは、以前の住職家が途絶えて、新たな住職を迎える記念事業でした。その新住職は遠い長浜の方なのです。何故か?実は、当時、長浜から平野は、琵琶湖ー宇治川ー淀川ー平野川と、ずっと繋がっていたのです。まさに楽な水路のお陰様です。
―――以上『顛倒』2018年8月号 No.416より ―――