正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十三回

   今月は、「善悪」「凡夫人=凡夫」に集中して読んでいきます。 どちらの言葉も親鸞さんの中心課題です。 「一切善悪凡夫人」の受け取り方が、人によって色々です。 一般には「善人、悪人、凡夫(=普通の人)」と受け取って、「全ての人は」と読む方が多いようです。
 中には「善凡夫、悪凡夫」と「凡夫に善悪の二種類がある」と読む方もおられます。 これは、一般的な読み方より面白いなと、私(住職)は思います。 世間的な「善」い行いを積み重ねている「凡夫」と、世間的な「悪」を犯す「凡夫」ということで、 世間的な「善悪」の概念を超える「凡夫」という「人間存在の底に在る本質」を言い当てていて、 「その通りだな」と思うのです。

 そう!一切の人は、賢い人も、阿保な人も、貧乏人も金持ちも、老若男女、皆ともに「凡夫」なのです。
 がしかし、私はまた別な読み方を選びたいのです。 それは「一切の善悪に惑う私たち凡夫」という受け取りです。 善だとか悪だとか、自分の目先の事だけしか考えられず、 「オレが正しい、アイツが悪い」、そんなことばかり言っている人、すなわち「凡夫人」の内実が表現されている。  ということです。「なるほど」と思います。

「善悪」という問題では、有名な『歎異抄』の親鸞の言葉があります。 「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」

この親鸞の言葉は無茶苦茶ですね。 私たちの社会生活は、「悪事を避けて、善い事をする」ことを心掛けているのですが、親鸞は「何が悪やら何が善やら。 私は全く知らない」と言うのですから。 しかしこの言葉は、少し後に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、 みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と続きます。
 これで、少し観えてきました。 世の中で「善い事、悪い事と言われていることは、本当にそうか、よくよく観なければならない」という事です。 先日も「総選挙」がありましたが、政治家の言葉などは、その典型でしょう。 言葉は綺麗に飾られますが、その奥の奥を見通さなければならないという事です。 そのような善悪に惑っている私だと気づきなさいということです。

 聖徳太子は『十七条憲法』で「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。 共に是れ凡夫のみ」と、凡夫を「ただびと」といわれ、 「人はみな凡夫であり、傷つけ合うのではなく、 お互いに許し合って生きてゆく世界を開こう」と呼びかけられます。 親鸞さんは『一念多念文意』で「凡夫というは、無明煩 悩われらが身にみちみちて欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬むこころ多く、ひまなくして、 臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」と、私たちの有り様を言い当てておられます。

―――以上『顛倒』2017年11月号 No.407より ―――

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