正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十四回
 聞信如来弘誓願
    仏言広大勝解者
       是人名分陀利華


 今月は、先月の「一切善悪凡夫人」を受けての部分です。 サラッと読み下すと、「(阿彌陀)如来の弘誓願を聞信すれば、(釈迦)佛は、是の人を広大勝解の者と言えり。 (また)分陀利華と名づく」です。言葉に当たっていきましょう。


 意味の近い言葉に「四弘誓願」があり、「仏道を歩む者の四つの基本的な誓い」 を意味しますが、この「弘誓願」は「阿彌陀佛の摂取不捨という弘い誓い」という意味です。

 佛道修行は、先ず誓いを立て、そしてそれを成し遂げようと努力する事が肝要です。 阿彌陀佛も、「あらゆる人を救い取って捨てない」という誓いを立てて法蔵菩薩と成られ、 その誓いを成就して阿彌陀佛と成られたと『無量寿経』に述べてあります。 これはもちろん神話的表現ですが、歴史的事実としての、お釈迦様が下敷きとなっています。 インドの釈迦国のゴータマシッダルタという王子様が出家して、人間の生きる「苦」の意味を解くと誓われて、 そして悟りを開いて佛陀と成られた事実の神話表現なのです。

  「勝」は「すぐれて」、「解」は「領解」ですから、 意味は「広大な優れた法則をよく領解した智慧の人、他力信心の行者」です。


 とは、「白い蓮の華」の事。    先月の言葉とまとめて訳すと、「一切の善悪に惑う私たち凡夫であっても、 阿彌陀如来の弘い誓願をよく聞き信頼すれば、お釈迦様は、 その人は、広大な優れた法則をよく解った、気高く尊い白い蓮華のような人だと仰います」です。

 最後に「蓮の華」について述べましょう。佛教のお寺には「蓮華」が付きものです。 何故かという事で、親鸞さまは、『維摩経』から「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。 卑湿(ひしつ)の淤(お)泥(でい)に、いまし蓮華を生ず」という言葉を引かれます。 「乾燥した美しい高原には蓮はできず、卑しい湿った汚れた泥の中から蓮は咲くのだ」という意味ですが、 これは、佛教者の生きざまを表現する言葉です。 「それは、サッと咲いてサッと散る桜のようなものではなく、またヒラヒラと舞う花びらのようでもなく、 泥の中にしっかりと根を張って、しかもそこに留まることなく、 茎を延ばして綺麗な華を咲かせる蓮のようなものだ」という味わいです。

「汚泥」は、我々人間の現実生活です。 その汚泥をしっかりと観つめ、その中に根を張って、しかもその現実に埋没せずに、 理想を高く掲げて、茎を延ばし、理想を実現するという華を咲かせる事が願われているのです。 現実をよく知り、しかも埋没せずに、 阿彌陀佛の「選ばず嫌わず見捨てず」という願いを我が願いとして生きる事が肝要なのです。

―――以上『顛倒』2017年12月号 No.408より ―――

      

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