正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第十三回
清浄光(しょうじょうこう)
 道光明朗超絶せり
 清浄光佛とまふすなり
 ひとたび光照かふるもの
 業垢をのぞき解脱をう


十二月は、清浄光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
 道光明朗色超絶 故仏又号清浄光
      一蒙光照罪垢除 皆得解脱故頂礼

これまた内容は、和讃とほとんど一緒です。

先ず言葉を観ていきましょう。

道光(どうこう) 「道」は「悟り」。 道理、道徳、道心、などの単語があります。大宇宙の真理、教え、です。 その「光」ですから、「阿弥陀佛の悟りの光」、すなわち、広がり、影響、包み込む、といったイメージの言葉です。



業垢(ごうく) 「業」は「行い」の事。 「業が深い」といった言い方で、「業」だけで悪いイメージがありますが、それは誤りです。 善し悪しは人間が都合で決めることで、「業」自体には、善悪はありません。 ただ「人間の行いの積み重なり」という意味です。しかし、ここは「業垢」と「垢」が付いて、悪い意味になります。 「いろんな行いが積み重なって垢のようにこびりついている」というイメージで、悟りの障りになります。 「阿弥陀佛の光は、その垢を除いてくださる」という事です。だからこそ、清浄な光なのです。

頂礼(ちょうらい) 「頂礼」。先月の光炎王佛を説く 『讃阿弥陀佛偈』にも使われている言葉です。 佛教の礼法の一つで、本尊の前にひれ伏し、頭を地につけて拝する最敬礼です。 チベットなどで有名な五体投地といった礼拝を意味します。 親鸞聖人は、そんな在り方を「帰命?(きみょう)?」と訳されます。



さあ全体を訳してみましょう。

 阿弥陀如来の道(さとり)から放たれる光明が、 明るく朗らかなようす(色)は、あらゆるものを超えている。 (それゆえ)清浄光佛と申し上げるのである。 ひとたび、この光に照された者は、これまでの行いの垢が除かれ、迷いの世界を脱し、 浄土に往生することができるのである。

 これは、具体的にはどういう状態を言うのでしょうか。
親鸞聖人は「光?」を具体的に和讃されています。 それは、師匠の法然上人(源空)を和讃したもので、

 源空光明はなたしめ  門徒につねにみせしめき
  賢哲愚夫もえらばれず  豪貴鄙賎もへだてなし


です。「えらばずきらわず?」の姿こそが「?光」なのです。 あらゆる人を、えり好み無く、分け隔てなく、受け入れる、「光の人?」に本当に出会ったとき、 人はそれまでの自分の行いを深く見直し、その誤りに気づき、 ただ今からは、「真実に生きよう?」と、 「あらゆるいのちと水平に出会う世界を願って生きて往こう?」と決定し、歩み出すのです。



―――以上『顛倒』15年12月号 No.384より ―――

          

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