正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第四十二回
 
  憶念おくねん弥陀佛みだぶ本願ほんがん
   自然じねん即時入そくじにゅう必定ひッじょう
   唯能ゆいのう常称じょうしょう如来號にょらいごう
     應報おうほう大悲だいひ弘誓恩ぐぜいおん



  サラッと訳しますと、「阿彌陀佛の本願を憶念すれば、
その時すぐに自然と、必ず浄土に往く事が定まります。だから、ただよく常に南無阿彌陀佛と称えて、すべての人々を救って下さる大悲の弘い誓いの恩を報じなさい。と龍樹は説かれました。」
です。言葉の意味に当たります。

 「憶念」とは、いつも心にとどめて忘れない事。阿彌陀佛の本願のことを理解するという事ではなく、そのような願いがはたらいている事実に心を保ち続けている事です。


  「自然(じねん)とは、「自(おのず)から然(しか)らしむ」と読みます。理屈では説明できないけれど、「なぜか、そのようになっている」という事です。ここでは、阿彌陀佛の本願が、私たちにしてみれば、「なぜかそのようになる」としか受け止められないことを「自然」と言われるのです。
 
 「即時」は、「ただちに」、「そのまま」という意味で、「そのまま」が味わい深いです。

 
  「必定」は、「必ず浄土に往生する事が確定する状態」ということで、「正定(しょうじょう)」 とも言います。古来、南無阿彌陀佛の信に関しては、「信」で助かるのか、南無阿彌陀佛と称する「行」で助かるのかという、論議があります。これを、親鸞さんは『歎異抄』の冒頭で、次のように言われます。
 
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と。

 ここに、「念仏もうさんとおもいたつ」とあるのは、これから念仏するのですから、「行」では無く「信」で助かるという事になります。龍樹さんも「憶念すれば、自然に 即時に必定」ですから、当然「信」で定まるわけです。
 逆に言うと、「信」が定まれば、南無阿彌陀佛と自然に口に出ますが、南無阿彌陀佛と口にしていても「信」があるかどうかは判らない。という事です。これは明確です。 
 ただここで問題が出てきます。「信」を得たと証明できるのかという問題です。これが実は「無い」わけです。という事は、やはり「信が在るか無いか、解っても判らんでも、ナムアミダブツと言いなさい」という事になります。ここで、見えてくることは、「信」とは定まった境地ではないという事です。龍樹に依れば「いつも心にとどめて忘れない事が信」という事です。すなわち、「ナムアミダブツと口にしながら、阿彌陀佛の願いを、我が願いとして生きて往こうと、確かめ確かめしながら活きる」、その道筋が「応大悲弘誓」=「報恩の信」の証明です。


―――以上『顛倒』2018年9月号 No.417より ―――

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