正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第十五回
無碍光(むげこう)
 無明の闇を破するゆゑ
     智慧光仏となづけたり
     一切諸仏三乗衆
     ともに嘆誉したまへり


 四月は、智慧光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
 佛光能破無明闇 故仏又号智恵光
    一切諸仏三乗衆 咸共歎誉故稽首
  です。
 偈文を訳しますと、「佛の光は能く無明の闇を破する。 故に佛をまた智慧光と号す。一切の諸佛や三乗の菩薩たち が、ことごとく共に誉め嘆え、故に稽首される」です。
 和讃も偈文と全く同じ単語を多く用いられ、意味も全く
同じな事がよくわかりました。ことばの意味を見ましょう。

 三乗衆 とは、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)。佛道   修行が目指す境涯が、声聞、縁覚、 菩薩、佛の「四聖」と呼ばれます。声聞は、佛の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した人。 縁覚は、様々な出来事を縁として、自らの力で部分的な悟りを得た人。 菩薩は、全き悟りを得ようと不断の努力をする人。 佛(ブッダ)は覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法則を覚った人のことです。 親鸞聖人は、和讃で、この言葉を用いて、「あらゆる道を求める人たちが、 この智慧光である阿弥陀佛を誉め嘆えられる」と、強調されたのだと思います。

 無明の闇 とは、私たちの生き様を表す言葉です。真実に暗く、虚偽を本当と思い違いしているあり様 で、まさに「闇」なのです。と、こう見てくると・・・

 智慧 とは、闇を破るもの=「光」であると頷けます。それは即、 「阿弥陀」すなわち「永遠無限」であると判ります。 佛教の教える人間の生き方に「八正道」があり、その第一は「正見」です。 何が「正しい見方」なのでしょうか。

 これまた佛教の教えに「セミは夏を生きている事が判らない」というのがあります。 「どうして?セミは夏に元気に飛び回っているやん」と思うでしょう。 でもセミは夏が終わる前に死んでしまうので、秋も冬も春も知りません。

「だから、夏であることは判らないでしょう」ということです。 私たちは「今・此処・私」を生きていて、「今・此処・私」を見ようと目を凝らしています。 でもそれでは本当の姿は見えないのだと、この事から教えられます。

「今」を観ようとするなら、過去を観、未来を見通して初めて「今」が、 「此処」を観るなら、日本を世界を観て初めて「此処」が。 「私」を観るなら、内を観ていてもだめで、周りの人たちを観て初めて「私」が観えてくるのです。
 残念ながらもちろん、我々人間が佛の眼を持つことはできません。 しかし「人間のモノの見方は狭い。できるだけ大きく広い視野を持とう」と意欲することならできます。 このような在り方を「智慧」と呼ぶのです。



―――以上『顛倒』16年4月号 No.388より ―――

          

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