無明の闇を破するゆゑ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまへり
四月は、智慧光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
佛光能破無明闇 故仏又号智恵光
一切諸仏三乗衆 咸共歎誉故稽首 です。
偈文を訳しますと、「佛の光は能く無明の闇を破する。 故に佛をまた智慧光と号す。一切の諸佛や三乗の菩薩たち が、ことごとく共に誉め嘆え、故に稽首される」です。
和讃も偈文と全く同じ単語を多く用いられ、意味も全く
同じな事がよくわかりました。ことばの意味を見ましょう。
三乗衆 とは、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)。佛道 修行が目指す境涯が、声聞、縁覚、 菩薩、佛の「四聖」と呼ばれます。声聞は、佛の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した人。 縁覚は、様々な出来事を縁として、自らの力で部分的な悟りを得た人。 菩薩は、全き悟りを得ようと不断の努力をする人。 佛(ブッダ)は覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法則を覚った人のことです。 親鸞聖人は、和讃で、この言葉を用いて、「あらゆる道を求める人たちが、 この智慧光である阿弥陀佛を誉め嘆えられる」と、強調されたのだと思います。
無明の闇 とは、私たちの生き様を表す言葉です。真実に暗く、虚偽を本当と思い違いしているあり様 で、まさに「闇」なのです。と、こう見てくると・・・
智慧 とは、闇を破るもの=「光」であると頷けます。それは即、 「阿弥陀」すなわち「永遠無限」であると判ります。 佛教の教える人間の生き方に「八正道」があり、その第一は「正見」です。 何が「正しい見方」なのでしょうか。
これまた佛教の教えに「セミは夏を生きている事が判らない」というのがあります。 「どうして?セミは夏に元気に飛び回っているやん」と思うでしょう。 でもセミは夏が終わる前に死んでしまうので、秋も冬も春も知りません。
「だから、夏であることは判らないでしょう」ということです。 私たちは「今・此処・私」を生きていて、「今・此処・私」を見ようと目を凝らしています。 でもそれでは本当の姿は見えないのだと、この事から教えられます。
「今」を観ようとするなら、過去を観、未来を見通して初めて「今」が、 「此処」を観るなら、日本を世界を観て初めて「此処」が。 「私」を観るなら、内を観ていてもだめで、周りの人たちを観て初めて「私」が観えてくるのです。
残念ながらもちろん、我々人間が佛の眼を持つことはできません。 しかし「人間のモノの見方は狭い。できるだけ大きく広い視野を持とう」と意欲することならできます。 このような在り方を「智慧」と呼ぶのです。
―――以上『顛倒』16年4月号 No.388より ―――