正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十五回


 今月の部分を読み下します。「阿彌陀佛の本願念佛を、邪見(じゃけん) きょう慢(きょうまん)の悪(あく)衆生(しゅじょう)が信(しん)楽(ぎょう)し 受(じゅ)持(じ)することは、甚(はなはだ)以(も)って難(かた)し、難中(なんちゅう)の難(なん)、 斯(こ)れに過(す)ぎたるは無(な)し」です。


次に言葉に当たりますが、一つ一つの漢字に深い意味があります。

「邪」は「よこしま」で「因果の道理を無視する」です。
「見」は「ものの見方・考え方」。
きょう(きょう)は、訓読みでは「きょう(おご)る」とか「きょう(ほこ)る」で、意味は「ほしいまま」
「慢」は、慢心・傲慢の慢ですから、意味は「他を軽んじて自らをよしとする。たかぶる」で、佛の説かれる根本煩悩、すなわち、私たち自身の心の在り様です。
「信楽」は言葉通り「信じ楽しむ」ですが、「阿彌陀佛の根本の願いを知り信ずる事は、 楽しい事だ」という事実を表し、
「受持」は「(佛の教えを)受けて忘れない」で、教えというものは、自分の中に保てて、初めて受けた事になる」という事です。

  このように見てきますと、「邪見きょう慢悪衆生」とは。私たち自身の在り様を言うているのですが、そういう者が、阿彌陀佛の本願という「真実」に出逢う事は「難」を、三度も重ねて言うほど「難しい」のだと親鸞さんは言われるのです。どういう事か、それは「邪見できょう慢な私だ」と自分自身で気づく事が、とても難しいという事です。
え どうでしょうか。自分が正しいという思い込み。ありませんか?それを打ち破るのは、広く深く物事を知るという事でしかあり得ないのです。
 例えば、私(住職)自身、29歳で親鸞の事を本当に知るまでは、「宗教などは、世の中で一番役に立たない」 「そういうものが無ければ生きていけない弱い人たちが居るから在るだけで、本当は無い方がよい」「そんな役立たずに、自分が成る気は無い」と思っていました。
まさに「邪見きょう慢」でした。 実は、佛教は、こんな邪見きょう慢な私が、信じる信じない事なんか関係ないのです。
 「佛」とは「ブッダ」「真理を覚った人」という意味ですから、「佛教」とは「真実教」です。例えば「無有代者」
 「代わる者有る事無し」で「私という存在は、唯一無二のもので、代わる者は無い」という事で「真実」です。 例えば「諸行無常」。「あらゆる物事は常に移り変わって固定した実体は無い」という事で、これも「真実」です。 イスラム教の人も、キリスト教も、神道も、「宗教なんてくだらんものは信じない」という無宗教の人も、誰もが皆、無有代者の身を生き、諸行無常の世を生きています。
  それが「事実」ですね。「万有引力」のようなものです

―――以上『顛倒』2018年2月号 No.410より ―――

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