ここの「正信偈講話」を連載し始めたのが、2014年?月で、もう3年半過ぎました。 実は、先月号に載せた「印度西天之論家」から「正信偈」は後半部分に入りました。 そこで「正信偈」とは何かを振り返っておこうと思います。
正信偈の構成
学問的に言うと「正信偈」は三つの部分に分けられます。
一番最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は、総ての序文で、そのまま「南無阿彌陀佛」の言い換えです。
二つ目が、次の「法蔵菩薩因位時」から「難中之難無過斯」で「依経段」と呼ばれ、『佛説無量寿経』に依って述べられた部分です。 その中も、(1)阿彌陀佛について述べた部分、(2)お釈迦様の教えについて述べた部分、 そして、(3)まとめ、の三つに分類されます。
三つ目が、先月の「印度西天之論家」から最後までで、 「依釈段」と呼ばれ「七高僧=龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空」のそれぞれの解釈が述べられます。
しかし、
先日も、あるキリスト教者に「佛教は難しいから」と言われました。 なるほどキリスト教やイスラム教は、要は、 「善い事をし、悪い事をするな」という「人間の常識」に近い教えですから、とても分かり易いのです。
それに対して佛教は、特に親鸞の佛教は、 「善い悪いなんて、人間に解るのか?」なんて厳しい事を言うものですから、とても難しく思えるのでしょう。 でも、そうではなく、「難しくしているのは私だ」と気づいてほしいのです。 頭で、脳みそで、自分の思いで、事実を捏ね繰り廻して、捏造する。
その思いを離れ、自分の存在の根本に素直に戻れば、観えてくる世界なのです。
親鸞の世界は。
―――以上『顛倒』2018年4月号 No.412より ―――

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