正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十七回

  ここの「正信偈講話」を連載し始めたのが、2014年?月で、もう3年半過ぎました。 実は、先月号に載せた「印度西天之論家」から「正信偈」は後半部分に入りました。 そこで「正信偈」とは何かを振り返っておこうと思います。



正信偈の構成
 学問的に言うと「正信偈」は三つの部分に分けられます。
 一番最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は、総ての序文で、そのまま「南無阿彌陀佛」の言い換えです。
 二つ目が、次の「法蔵菩薩因位時」から「難中之難無過斯」で「依経段」と呼ばれ、『佛説無量寿経』に依って述べられた部分です。 その中も、(1)阿彌陀佛について述べた部分、(2)お釈迦様の教えについて述べた部分、 そして、(3)まとめ、の三つに分類されます。
 三つ目が、先月の「印度西天之論家」から最後までで、 「依釈段」と呼ばれ「七高僧=龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空」のそれぞれの解釈が述べられます。

佛教は  もちろん、お釈迦さまの教えですが、彼が作ったのではありません。 彼が、この世の在り様を深く見通され、その道理に気づかれて、それを言葉にして語ってくださった教えです。 そして、その教えが、七高僧に代表されるような、多くの国々の、多くのお坊さんや先生方によって、 深められ広げられて、厖大な哲学体系となって、現代にまで伝わっているのです。 だから「佛教は難しい」と思われるのは、無理のない事なのです。

しかし、 親鸞は、その厖大な難しい哲学体系をギューッと押し縮めて「南無阿彌陀佛」の一言に収め、 さらに「解っても判らんでもいいから、ナムアミダブツと口にせよ」と「ただ南無阿彌陀佛」と説かれました。  そのお陰で、難しい佛教が、偉いお坊さんや、金持ちだけのものでは無くなり、私たち庶民のものになったのです。 そして、さすがにそれだけでは乱暴だなと、「南無阿彌陀佛とは、どういうことか」を説く「正信偈」を創って下さったのです。 ですから「正信偈」は、より正式には「正信念佛偈」とも呼ぶのです。

易行難信 但し、簡単な「ナムアミダブツと口にする」事を説かれたために、今度は人間の問題が出てきました。 「そんな簡単な事で救われるなんて信じられない」という疑いです。 そうして「行は易しいけど、信頼するのは難しい=易行難信」という言葉もできました。

 先日も、あるキリスト教者に「佛教は難しいから」と言われました。 なるほどキリスト教やイスラム教は、要は、 「善い事をし、悪い事をするな」という「人間の常識」に近い教えですから、とても分かり易いのです。

 それに対して佛教は、特に親鸞の佛教は、 「善い悪いなんて、人間に解るのか?」なんて厳しい事を言うものですから、とても難しく思えるのでしょう。 でも、そうではなく、「難しくしているのは私だ」と気づいてほしいのです。 頭で、脳みそで、自分の思いで、事実を捏ね繰り廻して、捏造する。
その思いを離れ、自分の存在の根本に素直に戻れば、観えてくる世界なのです。
親鸞の世界は。

―――以上『顛倒』2018年4月号 No.412より ―――

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