
慈光はるかにかふらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ

二月は、歓喜光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
慈光遐被施安楽 故仏又号歓喜光
光所至処得法喜 稽首頂礼大安慰 です。
見た目は親鸞和讃と相当異なりますが、比較してみます。
慈光はるかにかぶらしめ ・・・・慈光遐被
ひかりのいたるところには ・・・光所至処
法喜をうとぞのべたまふ ・・・・得法喜
大安慰を帰命せよ ・・・・・・・稽首頂礼大安慰
こう見ると、重なる部分は、ほぼ同じ内容であり、和讃では、施安楽 故仏又号歓喜光 が抜けていることが分ります。親鸞さんは、なぜこの部分を省かれたのでしょうか。特に歓喜光は佛の名前なのに。もちろん字数の問題はあったでしょうが、省かれた安楽、歓喜は法喜にふくまれているということでしょう。そこで法喜に着目します。

普通には、佛法に触れて感ずる喜びと訳されますが、佛法ってなんやねん。 喜びってどんな喜びやねん。って突っ込みを入れたくなりますよね。突っ込んでみましょう。
先ず「佛」です。佛とは、「真実・真理に目覚めた人」という意味です。「法」とは、「法則、道理」ですから、 「佛法」とは「真実の法則」という意味になります。
お釈迦様は、それを「縁起」と言われました。では「縁起の法則」って何でしょう・・・。ここで少し話を変えます。 皆さんは「万有引力の法則」はご存じですか。在りますよね。地球が太陽の周りを廻り、月が地球の周りを廻るのも、銀河系が回転するのも、リンゴが地面に落ちるのも、万有引力の法則です。でも、引力を見たことがありますか。どこにあるのですか。ニュートンがリンゴが落ちるのを観察して引力と名付けましたが、それ以前から、人間が生まれる前から、地球ができる前から、大宇宙が 出来る前から「引力」は確かに在るんです。
真実・真理とは、それを人間が知っているとか信じるとか関係なく「在る」事なんです。
お釈迦様が言葉にされた「縁起の道理」も、そのようなものです。 何も佛教者だけのものではありません。 キリスト者もイスラム者も天理教も創価学会もみな「縁起の道理」に従っています。それは、 「あらゆる物事、状況は、縁(条件)によって起こり、また形と成るのであって、 絶対なもの固定したものではない」という道理です。その真理に気づかずに、 相対的なものを我が頭脳で絶対と固執するがゆえに、人間の過ち、苦しみ 悩みは生ずるのです。世界中の争い事、悩み事はみな、ここから生じています。 その真理に気づいたら、それは大安慰であり、安楽であり、真の歓喜なのです。
―――以上『顛倒』16年2月号 No.386より ―――