正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第二十五回



  五濁悪時群生海
       応信如来如実言


 二行目の読み下しは  「応(まさ)に如来(にょらい)如実(にょじつ)の言(ごん)を信ずべし」

 サラッとした意味は、  「釈迦(しゃか)如来(にょらい)の真実のお言葉を信じるべきである」です。  が、これでは深い意味は読み取れません。言葉に当たって行きましょう。

 応信「応に信ずべし」ですが、「信に応じる」とも読めます。
 「信」「信じる」という言葉は難しいです。
「信じる」と言うと普通は、「私が信じる」ことだと思いますね。 「信じる者は救われる」とか 「イワシの頭も信心」 なんて言葉がすぐに思い浮かびます。 が、どちらも、「信」の佛教的意味からいうと、間違った言葉です。 佛教の「信」は、「真実信心」とも呼ばれますが、 「信知」。すなわち、本当の事を知るという事です。 すなわち、この私が信じようと信じまいと、知る知らないに関わらず真理であることを、知る、知ってしまうという事が、本来の信なのです。

 例えば、佛の説く「諸行無常」と言う言葉。 あらゆる物事は常に流動し、変化していく。 という意味ですが、これは真理です。 科学の言葉で例を取ると、「万有引力の法則」です。 万有引力は、私たちが知ろうが知るまいが、信じようが信じまいが、在りますね。 そういうものが「真理」です。それを知り、「そうだね」と頷くのが「信」です。 私が信ずるのではなく、真実の信が私を捉えるのです。 と、気付いてくると、応じる が良く分かります。 真理に応える者に成るということです。 その言葉が「如来如実の言」


 如来「如」は、  「真如」「真実一如」などの言葉で解るように「真実の働き・状態」を意味します。「如来」は、それが私の所まで「来る」という意味です。  例えば、お釈迦様を釈迦如来と呼ぶのは、  「真実が人間世界まで来て釈迦と成られた」という意味が込められているのです。

  如実は「真実の如し」で、「真実の姿に、かなっていること」 「物事をありのままに観る」という意味です。 その「言」ですから、「真理の言葉」なのです。


 一行目の「群生海」の「海」は「豊かさ」の象徴でもある。 と2月号に書きましたが、「海」は「私の生きる世界」を表現しています。 自分の思いだけで生きているときには、 「荒れる海」「沈んでいく海」とマイナスにしか見えなかった世界が、 自分の思い込みを翻して、真理の言葉に従う時に、 「豊かに私を受け容れ包み込む海」とプラスに転じて、 受け止めることが始まるのです。

 「五濁」は、皆、人間が作り出した濁りです。 佛の真実の眼から見ると「人間は頭で歩いている」のです。 頭で考えた事を事実だと間違えて生きているのです。

「原発が無ければ経済が成り立たない」 「武器が無ければ平和は守れない」・・ はたして本当なのでしょうか。

―――以上『顛倒』2017年3月号 No.399より ―――

          

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