この十二光についての和讃は『讃阿弥陀佛偈和讃』と名付けられ、 「和讃本」の最初に載せられている和讃です。 実は元本があって、それが『讃阿弥陀佛偈』という、 中国浄土教の祖と言われる曇鸞大師(西暦500年ころ人)の著作です。 曇鸞は、天親菩薩の『浄土論』を注釈した『浄土論註』も著しており、親鸞は、それを『註論』とも呼んで高く評価しています。
無対光の和讃の元ネタは、こんな漢文の詩です。
清浄光明無有対 故仏又号無対光
遇斯光者業繋除 是故稽首畢竟依
内容は、和讃とほとんど一緒です。親鸞がいかに、この教えを皆に伝えたかったかが、よく伺えます。
無對光(むたいこう)
清浄光明ならべし
遇斯光のゆへなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を歸命せよ
先ず簡単に訳してみましょう。
貪る欲の罪を消すゆえに、清淨である阿弥陀佛の光明は、諸仏の光明よりすぐれて「他に比べるものが無い(無対)」のは、我々が、この光に遇うことができる光だからです。
それは、一切の罪業や苦悩の束縛を除きつくします。
(だから)あらゆる衆生の究極のよりどころともなる阿弥陀佛を馮まずしてどうしておられましょうか。
(本願寺派妙念寺・報徳寺HPなどを参考)
言葉を観ていきましょう。
古い写本の解説には、「貪る欲の罪を消す働きなので。清浄な光明という」とあります。
「斯の光に遇う」ということで、上段の『讃阿弥陀仏偈』の曇鸞の言葉をそのまま使われています。 究極の依りどころの意味。これまた曇鸞の言葉そのままです。 古い写本の解説には「法身のさとり、残るところなく、極まりたまう」とあり、 あらゆる煩悩が滅した究極的な真理そのものという意味です。 それはもちろん、我々人間側のことではなく、阿弥陀佛が究極の存在であるということで、 それゆえに、すべての衆生の絶対の安らぎ、依りどころとなります。 その阿弥陀佛の根本の願い(本願)を信頼し、お任せせよと親鸞は勧めておられるのです。
―――以上『顛倒』15年10月号 No.382より ―――