「王」とありますが、実は質素な衣を着た何も持たない佛だと言われます。 「自在」であるということは、何にも執着しないという事ですから。質素で無所有です。 翻って、私たちの生き様は執着ばかりです。名誉に、財産に、モノに執着し、そして「思い通りにならない」と苦悩します。 我が生活を観てみれば、モノを捨てられず、家中モノに埋もれてしまって、大切なモノが分らなくなっています。
法蔵菩薩となる王子様も、王子ですから、地位も名誉も財産もたくさん所有しており、意識せずとも「執着」していたのでしょう。 そこに無所有の世自在王佛に出逢って、その自在さに憧れを抱かれたと思います。
「こんな自在な人に成りたい」と、さらに、「自分と同じように執着に苦しむ全ての人々に解放(解脱)の道を示したい」と。
その願いを、世自在王佛に問うと、佛は、それぞれの諸佛が浄土(自在で水平な人の交わりの世界)を開かれている原因と、 人間世界の善悪に惑う姿を、王子に観せます。この辺りも、お釈迦様の事実と重なります。 いわゆる「四門出遊」です。 お釈迦様はシャカ国の王子として、妻子を持ち何不自由ない生活だったのですが、 29歳の時に「生老病死」という人間の現実に出逢われます。
東門を出ると、ヨボヨボの老人と出会い、南門を出ると、道端に倒れる病人と出会い、 西門を出ると、死体を担ぐお葬式に出会い、王子は、お供に「あれは何者か?」と尋ね、 お供は、「すべて人間は、生身であるいじょう、老病死の苦しみを免れられません」と答えます。
北門を出ると、出家僧に出会い、その落ち着いた、清らかな姿に感動し、自らも出家を決意された出来事です。
ここで、「覩見」が大切になります。「目をこらしてよく見る」という意味ですが、 お釈迦様の場合も、生老病死を知識としては、当然知っておられたわけです。 しかし、それでは本当に観た事にはなりません。 自分の事として、身の事実として感じ取った時に、初めて自分自身の課題となったという事なのです。
私たちも同様です。毎日、テレビやネットや新聞でニュースが垂れ流されますが、 ただ傍観者として眺めているのなら全く意味がないのです。 福島原発事故で苦しむ人たち、沖縄の辺野古で基地を造らせないと頑張っている人たち、 お札を刷って儲けている人たち、戦争の出来る普通の国造りに邁進する人たち、 シリアで空爆で死んでいく人たち・・・、自分の事として受取れるのかという事です。
詩人宮沢賢治は謳いました。「世界がぜんたい、幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と。
―――以上『顛倒』15年3月号 No.375より ―――