親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第2回

瑞興寺御絵伝02
親鸞聖人御絵伝より:聖人荼毘の場面

 私が生まれたということはどうしておこったのか。 それについてどれだけ考えてもわからないのである。 なぜなら無限の条件が網の目のようにつらなっているからである。 それでは何のために生きてゆくのか。結局老いて死ぬために生きてゆくとも思われる。 しかし、もしそうなら、人生はいたずらな苦労をするためにあり、あるいは、 自然のいたずらとして人間がつくられたというような、 まったくわれとわが身を侮辱する卑屈な考えに沈んでしまわなくてはならない。 実際しかし、私という有限なものが無限の中からどうしてはじまったかを考えてみれば、 無限の条件が重なりあっていることがわかってくる。そのあるものは、 私が生きてゆくのに都合のよい条件となり、あるものは私の意志を束縛する壁となる。 そして、そのいずれもが、やがて私の老いて死することにむすびついている。

 この不可解な生と死は、私という人間に課せられた謎である。この謎を解いて、 私の人生というものが、 そのはじめなき無限の歴史に偉大な光明をプラスする意義をもっていることを明らかに見いだしたのが、 仏陀をはじめとするいにしえの聖者であって、とくに悪い条件のなかを人間として生きぬいて、 身をもってこの謎をあきらかにしたのが親鸞である。

―――東本願寺刊『親鸞読本』より ―――

           

 ○<住職のコメント>

 八月は、お盆、九月はお彼岸である。お盆は「先祖供養の季節」と言われ、お彼岸は、俗に「地獄の釜のフタが開く」と言われ、共にお墓参りの季節である。このように日本の伝統とは、先立たれた方々と、本当に親しく近しくおつき合いをするものだなあと感心する。

「そんなものは迷信だ」みたいに言われる方もおられるが、最近時々耳にする。「死んだらしまいや」「人間死んだらゴミになる」といった、全く自分自身さえも卑しめる、浅い思いよりは、よほど豊かな深みのある考え方ではないかと思う。  そこで問題は「それではご先祖とは誰のことか」である。お参りのときに時々、ご門徒方に聞いてみると、ほとんどが、おじいちゃん、おばあちゃん。せいぜいがその親くらいまでを言っておられる。でもよく考えると、そんなものでは留まらないはずだ。その父母、またその父母と、どこまでも逆登れるのである。

 そして、その無数のご先祖方のどの方がおられなくてもこの私はいないのである。すごいことだなと思う。私が一人ここに居るということは、そのような無数無量の背景を背負っているのである。それなのに、いいお年をした方が「私は誰の世話にもなっとらん」と言い放ってしまう。

 誠に残念な「思い計らい」である。

―――以上『顛倒』07年9月号 No.285より―――

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