親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第26回

 吉水よしみずに参って五年、親鸞の方向はきまったが、比叡山の宗徒、奈良興福寺の学徒らは、 法然がただ念仏をもっぱらにすることを非難し、院に告訴するにいたった。 健永二年(一二〇七)二月上旬、ついに法然とその門徒は罰せられ、法然は土佐の国、親鸞は越後の国へ 遠流(おんる)されることとなった。


[教行信証後序 より]
ひそかにおもんみれば、聖道(しょうどう)諸教(しょきょう)行證(ぎょうしょう)ひさしくすたれ、 浄土真宗(じょうどしんしゅう)證道(しょうどう)いまさかんなり。 しかるに諸寺(しょじ)釋門(しゃくもん)(きょう)にくらしくして、眞假(しんけ)門戸(もんこ)をしらず、 洛都(らくと)儒林(じゅりん)(ぎょう)にまどひて邪正(じゃしょう)の道路を (べん)ずることあたはず。  ここをもて興福寺(こうふくじ)學徒(がくと)太上(だじょう)天皇(後鳥羽の院と号す)今上(きんじょう)土御門の院と号す聖暦(せいれき)承元(じょうげん)(ひのと)()(とし)仲春(ちゅうしん)上旬(じょうじゅん)(こう)奏達(そうだつ)す。 主上臣下(しゅじょうしんか)、 法にそむき義に()し、いかりをなしうらみをむすぶ。 これによりて、眞宗(しんしゅう)興隆(こうりゅう)太祖(たいそ)源空法師(げんくうほうし)、 ならびに門徒(もんと)數輩(すはい)罪科(ざいか)をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。 あるひは僧儀(そうぎ)をあらため、 姓名(しょうみょう)をたまふて、 <遠流rp>(えんる)(しょ)す。 ()はそのひとつなり。 しかればすでに(そう)にあらず(ぞく)にあらず、 このゆへに禿(とく)の字をもて(しょう)とす。 空師(くうし)ならびに弟子(でし)(とう)諸方(しょほう)邊州(へんしゅう)につみして 五年の居諸(きょしょ)をへたり。



 ○<住職のコメント>

瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
 物事の有り様をしっかりと観て推し量ってみると、自分の力を疑わず、自力を積み上げて何物かに成ろうとする、 聖道門仏教は、その理想は高いけれど、その実践も成就も久しく廃れている。 それに対して、阿弥陀佛の根本の願いの力にお任せしなさいと教える、浄土門仏教は、 具体的に人々を救っていて、その正しさが証明されている。しかしながら、国家に公認され、 その保護を受けている、奈良や比叡山の有名なお寺の高名な僧侶たちは、 真の教えを知らず、本当に人を安らかにする真の道と、その道へ導くために方便として開かれた仮の道との見定めを知らず、 都の学者たちは修行にこだわって、正しいものと邪しまなものとの違いを説くことができなくなっている。  ここに、奈良の興福寺の学僧たちが、承元元(1207)年、陰暦二月上旬、後鳥羽上皇、土御門上皇に、 念仏禁止の訴えを起こし、それがお上に取り上げられた。天皇から臣下に至るまで、道理に背き、正義を違えて、 怒りを成し、恨みを持ったのだ。これによって、真実の教えを興し盛り上げた開祖である、 法然上人(源空)、そして、その門下の数人の僧侶が、罪のあるなしを正当に審議されず、無法にも死刑とされた。 また僧侶の立場を奪われ、還俗させられ、姓名を与えられて、遠隔地に流された者もいる。 私はその一人である。だから既に、勅許を受けた僧侶ではなく、しかし俗でもない。   この故に、「禿」を自らの姓名と決めた。 流された法然上人やお弟子たちは、方々の辺鄙な地で、五年という月日を過ごしている。

―――以上『顛倒』2010年3月号 No.315より―――

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