親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第72回

瑞興寺御絵伝72
聖人弘長(しょうにんこうちょう)(さい) 壬戌 仲冬(ちゅうとう)下旬(げじゅん)(こう)より、 いささか不例(ふれい)の気まします。 自爾(それより)以来(このかた)(くち)世事(せじ)をまじえず、ただ仏恩(ぶつとん)のふかきことをのぶ。 (こえ)余言(よごん)をあらわさず、もっぱら称名(しょうみょう)たゆることなし。 しこうして、(おなじき)第八日午時(うまのとき)頭北面西(ずほくめんさい)右脇(うきょう)()(たま)いて、 ついに念仏の(いき)たえましましおわりぬ。 時に、頽齢(たいれい)九旬に満ちたまう。


聖人は九十歳となりました。
仲秋の(八月)からお弟子の訪問も断るようになり、舎弟の善法房僧都の里坊、善法院いに移りました。 その年の十月に、老衰による病の兆候が見えましたが、すぐに回復しました。 十一月げ銃の初め、病床についてからは他に何もおっしゃらずに、絶える間もなく念仏を称えていられました。 おりおり阿弥陀如来と如意輪観音の広大なお慈悲について、また法然上人との出会いをお喜びになられました。 そして十一月二十八日、正午になると頭北面西、右を脇にして横たわり、念仏の息とともに浄土へお帰りになりました。

−−−【真宗聖典 東本願寺刊 より】−−−


 ○<住職のコメント>

いよいよ、親鸞聖人90歳。臨終の時を迎えられます。 振り返れば、宗祖750回御遠忌を前にこの『顛倒』での伝記の連載開始が、2007年8月。もう7年の月日が経ちます。
 その間、本山や南御堂の御遠忌が勤まり、残すは瑞興寺のご遠忌だけとなりました。 それがいつ執行できるのか、まだ分りませんが、振り返ると長い時間が経ったなと思います。
 世間でも当時は、第一次安倍内閣の時で、その後の民主党政権を経て、 第二次安倍内閣での激しい右傾化という、大転換の時を迎えています。 が、自分自身を振り返ると、何も進歩が無いような、忸怩たる、気持ちも感じます。
 親鸞さまも命終の時をお迎えになって、何か空しいような気持ちを持たれたのではないでしょうか。 蓮如上人のように、あれほどの大事業を成し遂げた方が「夢、幻の如くなる一期なり」と語られたように、 過ぎた人生を振り返ってみると「何をしてきたのかな」という思いを抱くのが人間というものなのかなと思います。
 親鸞さまの臨終の言葉として伝わる「賀茂川に流してくれ」という言葉も、 「夢、幻の一生を、大きないのちの元に帰る事で締めくくるのだ」という願いでしょう。
 この親鸞さまの言葉には、加古の教信沙弥の事績が大きく影響しています。 教信とは平安時代初期の奈良興福寺の学僧ですが、その身分を捨て、 ひたすら称名念仏を称えて加古川の河原に住まいして、世人を援ける生活をした僧でその命終の場面は壮絶です。 野犬に身体を与え、人が駆け付けた時には、その頭だけが残っていたと伝わります。
 縁の兵庫県加古川の教信寺には、頭だけの仏像があります。 親鸞さまは、かねてから「教信師が自分の目標だ」と語っておられ、それがこの臨終の言葉になったのでしょう
 また、臨終を看取ったのは娘の覚信尼ですが、彼女が母の恵信尼に、 「お父様は本当に極楽往生されたのか」という疑問の手紙を送っています。 それは親鸞さまの末期が、「静かに念仏を唱えて」というような事ではなく、最後までもだえて命終されたという事です。 「何をしてきたのかな」、「まだやるべき事がある」、「私の人生はこれからだ」と思い、賀茂川の魚に象徴される、 大きないのちに還り、また皆と必ず出会い直すのだという決意の表れでもあります。 私たち凡夫にとって、とても安心できる親鸞さまの姿です。

―――以上『顛倒』2014年7月号 No.367より―――

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