親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

第67回


 ○<住職のコメント>

 晩年の親鸞は、京都にあって精力的に本を書かれるが、78歳で、 『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』(」)を著(あらわ)される。
『唯信鈔』とは、親鸞の属した法然門下の先輩にあたる聖(せい)覚法印(かくほういん)の著書だが、 その中の経釈(きょうしゃく)の要文に註釈をしたものが『唯信鈔文意』である。 親鸞は門弟にしばしば『唯信鈔』を熟読することを勧めているので、 とても大切にされていたことが伺えるが、読むための参考書として『唯信鈔文意』を書かれたのだと思われる。
 聖覚法印は、隆寛律師とともに、法然上人からあつく信任されていた人である。 『唯信鈔』は法然に教えられた念佛往生の要を述べて、 「ただ信心」を専修念仏の肝要とすることを明らかにされたものである。 明快に、理路整然と、なぜ「ただ念佛の信心」なのかということが主張されている。
 前半では、@まず仏道には聖道門と浄土門の二門があり、 浄土門こそが末法の世の人間にかなうものであると選びとる。 Aその浄土門にまた、諸行をはげんで往生を願う諸行往生と、 称名念佛して往生を願う念佛往生とがあるが、 自力の諸行では往生をとげがたい旨を示して他力の念佛往生こそ阿弥陀佛の本願にかなうことが述べられる。 Bさらにこの念佛往生について専修と雑修とがあることを示して、 阿弥陀佛の本願を信じ、ただ念佛一行をつとめる専修のすぐれていることを明らかにし、 C念佛には信心を要とすることが述べられる。 また後半では、信心の迷いの姿を4種類とりあげて、それを明確に批判されている。
 内容は、現代にも通じる、私たちに生じる「迷い」の在り方、 「本物と偽物」の違いが、明確に示されていて、 だからこそ親鸞が門弟に勧められたことがよくわかるし、 人間に生じる「迷い」の内実は、昔も今も同じなのだと、よく分かる。 簡単に言えば、「ただ念佛で救われる。なんてことが信じられるか?」ということである。 「ナムアミダブツ」と声にすることなら、九官鳥でも少し教えれば出来ることで、 そんな簡単なことで助かるなんて、とても信じられないというのが、ごく普通の受け取りだからだ。
 難しい修行をして助かるのなら、分りやすい信じられる、ということで、 多くの浄土教徒が「たくさん念佛を唱える、難しい修行をしよう」と、 京都にある「百万遍」という地名がうまれる如くに、 念佛を百万遍唱える、難しい行に仕立て上げていったわけである。
 此処こそが「ただ念佛」の肝要である。難しい事ができるから何かいいことが当たる。 というのが、人間の上下感覚の常識なのだ。田中のマー君だって、 24連勝なんて、誰もできないことをやってのけたからこそ、 NYヤンキースが、160億円もの、お金を出すわけだ。誠に分りやすい。
 でも違うんだな、法然親鸞の念佛は。 その真髄とは、難しい修行をする人はそれは偉いだろう。 でも難しい修行をしなければ助からないというのなら、佛の救いは、 100万人に一人、1000万人に一人という「小さなもの」になってしまう。 お釈迦様の説かれた阿弥陀仏の願いは、 あらゆるいのちを摂い取って捨てないという「広大」なものである。 だから、誰にでもできる可能性のある、一番低い修行こそ一番素晴らしいのだ。 という、人間の常識をひっくり返す教えが、この「ただ念佛の信心」なのである。

―――以上『顛倒』2014年2月号 No.362より―――

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