親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第59回

 箱根を過ぎてから、駿河国の安倍川に着きました。 ところがちょうど大雨で水かさが増して、旅人が渡ることの出来ません。 両岸には渡ることが出来ない人々が、堤を築いたように大勢たむろしていました。 商人も笈を下ろして休んでいると、背後から一人の僧がやってきて「川の水は思ったよりも深くありません。 この川の淵や瀬をよく知っているので私が案内いたします。お供の方々も私についてお渡り下さい。 水は膝ほども深くはありません」と言うなり聖人の手を取って、川にざんぶと入りました。 たしかに水は膝から下の深さでした。 すっかり渡り終わってから、見るとその僧は一瞬のあいだに笈の中に入ってしまいました。 不思議なことだと笈を開けてみると、以前に霞ヶ浦で得た阿弥陀の木像を笈に納めてきたのですが、 その木像の膝から下が水に濡れていたのです。 今の奇特な僧が仏であることを知りました。まったく不思議なことです。

 その夜には手越に宿をとりました。長旅の疲れで三人とも早く眠りにつきました。夜中にお供の一人が夢を見ました。 笈の中の木像が枕元に立って「貴方は今日、川を渡れたことを大いに喜んでいるのか」と聞きました。 お供は「仏は後世の苦患をこそお救いになるのに、今日はこの世の水難を救って頂いたので、 後世の救いがますます心強く思われました」と答えると、 木像は手を打って笑って「貴方は愚かである。(仏の恩とは)どうして今日だけのことであろうか。 久遠の昔から今まで、生死の迷いの大海から衆生を救うために、無量の大願をおこし弘誓の大船に棹さして、 すべての衆生を載せようと限りなく姿を現している。 貴方はこの広大な仏恩を知らないのか」と告げたところで夢がさめました。

−−−【親鸞聖人正明伝より】−−−

 

 ○<住職のコメント>

今月の『親鸞聖人正明伝』の記述も、これが後世の作り話だとされる根拠です。 数年前に、霞ヶ浦で網にかかった阿弥陀の木像を大切に持ち歩いていたら、その仏が川を渡してくれたという奇瑞ですが、 これまた科学的な事実というより、大切な譬えと受け取るべきです。 こんな物語があります。 「江戸時代初めの頃、大和の吉野に清九郎という熱心な門徒(妙好人)がおられ、 毎月、親鸞さまの御命日に京都の本山までお仏飯を炊く薪を届けていた。 ある時、川が雨で増水し渡れないほどになっていたのだが、清九郎が岸に来ると、 突然砂州が盛り上がり渡ることができた」というのですが、 ある解説に「これは、毎月の清九郎の熱心さに打たれた船頭さんが、 増水にも関わらず無理をして渡ってくれたという事だ」とありました。
上記の安倍川での奇瑞も、事実は親鸞さんたちの純粋な願いを受け留めて、 無理して渡ってくれた船頭さんがおられたのでしょう。 その船頭さんを「本当に有難い諸佛のお一人だ」と受け留められたのだと解釈できます。
 また後半に、佛の恩として「生死の迷いの大海を、弘誓の大船で救う」という表現がありますが、 佛の教えの譬えとして、川や海がよく出てきます。 例えば、「二河白道」=水と火の河の真ん中の細い白い道を、 「行け」という釈迦、「来たれ」という阿弥陀の声に従って渡る、信仰生活を譬えた物語。 「水火二河」は、人間の貪愛を水、瞋憎を火と譬え、「中間の白道」は、貪瞋煩悩の中にあっても、 清浄願往生の心を生ぜしめる事を譬えます。
「四暴流」=悟りを「河の中の砂州」に譬えます。 人の生活は、四つの暴力的な流れの様なもので、漂うことさえできず、やっと砂州で安定するという譬え話です。 その四つとは、人間の欲望、物や思想への執着、そして真実に暗い在り方です。 「難度海を度する大船」=弥陀の大船でしか渡ることの難しい人間の生死の生き様。等々です。

―――以上『顛倒』2013年5月号 No.353より―――

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