親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第58回

場面解説<下記写真、瑞興寺所蔵親鸞聖人御絵伝より>
親鸞聖人御絵伝

4.烏帽子をつけ出迎えの神官。上原靭負(ゆきえ)。
1.先にお立ちになさるのが 親鸞聖人、六十二歳。
2.西念坊。
3.笈おいを背負う随伴の蓮位房。

文暦元年(一二三四)、聖人は二十年間住みなれた関東をあとに、御帰路の途につかれた。 途中天下の険箱根山を、秋の夜長をかけて越えられ、八月十七日暁光(ぎょうこう)、 箱根権現にさしかかられた場景で、社廟の神官が、聖人に慇懃(いんぎん)に挨拶申しあげている図である。
 神官は聖人が請(しょう)じ入れ、食膳を調(ととの)えさまざまな珍味を御馳走し、 「社やしろに仕える者のならわしで、夜通し神楽(かぐら)などをしていて、 うとうとと眠りかけた時、夢に、今尊敬すべき客人がここを通られるから、 おもてなしせよとの権現(ごんげん)のお告げがあった、と思う間まもなく、 お姿を現しなされた貴僧こそ、ただ人ではございますまい」と恭敬(くぎょう)尊重し、御給仕申しあげるのであった。

−−−【御伝鈔に学ぶ】より−−−

 


  六十歳を越した頃です。聖人は関東の境を超えて京へと向かいました。 そのとき月夜がとても美しかったので、箱根の山を超えようと夜通し歩いて、あけ方を迎えました。 しばらく休息をしようとしたとき人家の明かりが見えたので、立ち寄ってみました。 思いもかけず神官の装束の老人が現れて申すには「私は箱根権現の神官でございます。 仲間たちと集まって酒宴を楽しんでいましたが、彼が出て疲れが出て少し休んでいたところ、 今、夢とも現ともわからず権現があらわれて「私が敬う僧が今ここを通ります。 心をつくして尽くして丁寧におもてなしするように」とのお告げがありました。 そのお告げが終わらないうちに、貴方がいらっしゃいました。 どうしてただ人(直也人)でありましょうか。 神のお告げに明らかです。 どうして尊敬しないでいられましょうか」と丁重にもてましをされて、尊敬のこころを表しました。 そこで一日逗留することになりました。これも聖人のご化導が神の意にかなったからでしょう。

−−−【親鸞聖人正明伝】より−−−

 ○<住職のコメント>

 いよいよ、親鸞さまは関東を後にし京に帰られる事になりました。今月はその道中、有名な箱根権現での出来事です。
 上は『御絵伝』の解説、下は『正明伝』の記述で、「箱根の神が、親鸞を敬っていた」という逸話です。 「ホンマかいな」と言うのではなく、このような物語から何を読み取るのかという事です。 先ずは佛と神との近い間柄が見て取れます。『権現』とは、「仮に現れる」という意味で、 箱根権現は、文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本の佛とする神で、明治の神仏分離・廃仏毀釈以前は、 箱根山金剛王院東福寺という寺でもありました。それが、明治期に強制的に箱根神社とされたのです。 今も箱根には萬福寺という大谷派のお寺があり、明治の廃仏毀釈の折、箱根権現から譲られた、 本地佛である阿弥陀如来像と親鸞さまの自刻と伝えられる木像が、あります。 日本に於いては、明治まで千年に渡って神佛は混じり合っていました。 もちろん浄土真宗は、その中にあって例外的なほどに神と佛とを分けることを説いた、宗門ではありますが、 親鸞さまの言葉や今月の逸話を見れば、ただ闇雲に神祇を否定したわけではありません。 むしろ「健康にお付き合いしなさい」という事であったと、私は思います。 「政治権力が捏造し、人を脅し縛り付ける、世間の鬼神に囚われるのではなく、 自分自身を自在に生きなさい」という、教えが、親鸞の「神祇不拝」です。 現代ならさしずめ「よき者にならなければいけない」という「神・信仰」から人間を解放する言葉でしょう。

―――以上『顛倒』2013年4月号 No.352より―――

真実の言葉メニュ

次へ

Copyright © 真宗大谷派瑞興寺  このサイトの著作権は真宗大谷派瑞興寺に帰するものです。無断転用転載禁止。  ご連絡E-mailは コチラまで