親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第11回

「さて私(綽空)がまだ青蓮院の慈円僧正の弟子であった頃、 正治二年(一二〇〇、二十八歳)の秋九月のことでした。

朝廷の内裏から「恋」という題で和歌を詠むように、何人かの人々に仰せがありました。 師匠の慈円僧正が詠んで差し上げた和歌は、

  我恋は松を時雨のそめかねて 真葛が原に風さはぐなり

  というものでした。」

 人々のあいだに「このような名歌は、恋をしている身ではなくてはできるわけがない。 一生不犯のはずの天台座主が、男女の恋のあやをご存知であるとは、おかしなことでないか」 という風評が流れました。思いもかけない嫌疑がかけられたのでした。

 慈円僧正はこれを聞いて「心の内に恋は知らなくても、 人を恋する心をどうして詠まないことがあるでしょうか」と奏上しました。 「もしそうであるならば、僧侶が知ることのない題材を詠んでみよ」と、 再び、鷹狩りのありさまを詠む「鷹羽雪」という題が与えられました。 すぐさまその題によって和歌を詠んで内裏へ差し出しました。

  雪ふれば身に引きそふる箸鷹の たださきの羽や白ふ成るらむ

 この和歌の素晴らしさに主上臣下はこぞって誉め讃え「本当の才人は知らないことはない」と 濡れ衣が晴れて、かえって和歌の名手としての評判が高まりました。

―――親鸞聖人正明伝より―――

           

 ○<住職のコメント>

瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
 今月の場面は、比叡山時代の親鸞さんの日常が伺える話です。

当時の比叡山のお坊さんたちは、一応「出家」とは言いますが、世俗から離れたわけではないのです。 親鸞さんの師匠と言われる慈円は、関白九条兼実の弟で、 後に天台座主(テンダイザシュ・比叡山で一番上の位)になります。 何のことはない、長男は、世俗(朝廷)で出世を目指し、弟は比叡山で出世を目指すという構図なのです。 兼実、慈円は強大で表と裏の権力を握ったということです。

今月の場面は、そういった公家たちとの和歌を通してのお付き合いが描かれていますが、 これまた何の不思議もありません。 百人一首のカルタで、「坊主めくり」ができる程、 多くのお坊さんにすぐれた歌詠みがおられることでもわかるように、 和歌を通してお付き合いすることは、当時は当たり前のことでした。 ただ、そのお付き合いの陰微ないやらしさが、 後に親鸞さんが山を下りる原因のひとつだったようなのです。

―――以上『顛倒』08年9月号 No.297より―――

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