親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第61回

 その年の冬の初め、下妻の蓮位房と横曾根の性信房が、 聖人が無事に帰路したお見舞いのために上洛しました。 この二人はご帰路のとき途中までお供したのですが、聖人は箱根の東で返されました。 それで京都に着いた聖人にお目にかかるため、上洛したものです。 その後、南庄の乗然房をはじめとして、東国の門弟は日ましに訪ねるようになりました。

−−−【親鸞聖人正明伝より】−−−


 親鸞聖人は、流罪先の越後で赦免されてから、一二一四年(建保二円二年)関東地方に移り、 今の茨城県笠間市稲田を根拠ととして、以来約二十年間、関東地方で布教されました。 その間の布教によって関東地方で信者となった人たちは、孫弟子・ひこ孫弟子を加えて一万人。 主な門徒集団は、今の茨城県結城郡(ゆうきぐん)石下町(いしげまち)を中心とした横曾根門徒(中心人物は証信)と、 茨木県鹿島郡・行方郡を中心とした鹿島門門徒(中心は順信)と、 栃木県芳が賀郡二宮村高田を中心とした専修寺(せんじゅじ)門徒(中心人物は真仏と顕智)。
 ところが、二十年後に、聖人は京都に移ってしまわれました。 そうすると、あらゆる宗教がそうなのですが、教祖とか開祖とかがおられるうちは、 弟子たちももそれぞれ正しい道を歩いてる行けるわけですが、 肝心の親鸞師匠が東国からいなくなると、そこにいろいろな邪義が出てきました。 そのため、東国の門徒衆が動揺している・・

−−−【For Biginners 歎異抄より】−−−


○【第二章】その1
おのおの十(じゅう)余(よ)か国のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、 たずねきたらしめたまう御(おん)こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。

−−−【歎異抄 第二章より】−−−


あなたがた一人ひとりが、はるばる長い道のりを、 大切な体と命を危険にさらしてまで、訪ね求めてこられた志は、 真実の生活が実現する道理を体得したいということにある。

−−−【現代語訳】−−−

 

 ○<住職のコメント>

 親鸞さまは、約20年間の関東での布教生活を捨てて京都に帰られますが、大変な決断でした。 なぜなら、京都は生まれ故郷とはいえ、25年間も離れていて、ほぼ親鸞を支える門徒衆はいません。 関東なら多くの門徒に囲まれて生活は安定していたのですから。 その事は、京都での住居が弟の屋敷などを転々とされていた事、 また生活費を関東の門徒からの送金で賄っておられた事などから伺えます。 それでも決断されたのは、主著の『教行信証』を完成させる為とか、 関東では「先生」と持ち上げられてしまうので、 あえてその立場を捨てて一人の街のお坊さんに還る為とか言われます。 還暦を過ぎた故郷恋しさかもしれません。 私は、いろんな訳が重なってだと思います。 今月の文章は、京都の親鸞さまを、関東の門徒衆が訪ねてくる場面です。 親鸞帰洛後、20数年に渡って関東からの訪問は絶えませんでした。 「のぞみ」2時間半と違って当時は、2週間の徒歩の旅、まさにいのちがけです。 この辺りは、『歎異抄第二章』に詳しいですが、ただ、『歎異抄』の場面は、 親鸞帰洛後20年ころと思われます。当時の門徒衆の信心の揺らぎの理由に、 その頃、関東で精力的に布教を始めた日蓮の「念仏は地獄落ちだ」という布教があります。 それに対する親鸞の応答が『歎異抄』のハイライトですので、 ここは、ゆっくりと行きつ戻りつ、数か月かけて読んでいきます。

―――以上『顛倒』2013年7月号 No.355より―――

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