親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第4回

瑞興寺の花

親鸞が生まれた承安三年といえば、平家が政権をにぎった平治の乱から十四年をへて、その勢いがもっともさかんであったころである。 一家の棟梁、清盛は太政大臣を辞して入道していたが、その一門の重盛以下六人が公卿として栄え、清盛の娘は高倉天皇の中宮であった。これよりさき、後白河上皇を中心とする院庁と、延暦寺.興福寺との関係は円満ではなく、平家はこの対立する二大勢力をあやつって、みずからの政治勢力をますます拡大していった。

―――東本願寺刊『親鸞読本』より ―――

           

 ○<住職のコメント>

 今月は、親鸞聖人の生涯から少し離れたコメントをしてみたい。 それは、上の文章の中にある、「清盛入道」「後白河上皇(院)」の「入道」「院」についてである。 「入道」とは「仏道に入る」で、清盛がお坊さんになっている事 を示している。また、「院」も現在でも住職が「院主」と呼ばれる ように、お坊さんを意味する言葉である。ということは、親鸞聖 人の当時、力を競いあっていた者が、どちらも「お坊さん」だと いう事である。さらにこの両者に対抗していた比叡山・興福寺は、 もちろん、お坊さんだから、なんと当時の日本の権力を三分して いた三者が皆「お坊さん」である。どういうことなんだろうか。

 現在、このような在り方を観て「仏教が堕落していたのだ」と 言う方も多いが、私はそうは思わない。「それほど仏教の地位が 高かった、尊敬されていた」と受け取るべきではないかと思う。 「院」という言葉も、天皇との関係で否定的にしか見られない方 もおられるが、むしろ天皇の権威より仏法の権威の方が上だった と、見るべきではないか。 親鸞聖人の兄弟弟子にも、元々は武士で、たくさんの人を殺め てきた方々がおられて、「こんな自分は救われないだろう」と思っ ていたが、「念仏ひとつで助かる」と教えられて目覚められ、しっ かりとした念仏者になられた方々が少なからずおられる。「悪人の 自覚」とでも言うべきだろう。

 親鸞聖人当時の権力者がみなお坊さんに、なったということは、 それだけ「救われたい」「悪いことをしてきた」と自分では感じていた ということではないだろうか。仏法は彼らの救ったのだろうか。

―――以上『顛倒』07年11月号 No.287より―――

真実の言葉メニュ

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