親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

第73回

禅坊ぜんぼうは長安ちょうあん馮翊ふよくの辺ほとり 押小路南万里小路東 なれば、はるかに河東かとうの路みちを歴へて、 洛陽らくよう東山ひがしやまの西にしの麓ふもと、鳥部野とりべのの南みなみの辺ほとり、延仁寺えんにんじに葬そうしたてまつる。 遺骨いこつを拾ひろいて、同山おなじきやまの麓ふもと、鳥部野とりべの北、大谷にこれをおさめたてまつりおわりぬ。 しかるに、終焉しゅうえんにあう門弟、勧化かんけをうけし老若ろうにゃく、おのおの在住のいにしえをおもい、 滅後めつごのいまを悲かなしみて、恋慕れんぼ涕泣ていきゅうせずということなし。 -------------【御伝承】より 臨終に逢うことができた弟子たちは、仏日は滅び法燈は消えたと、皆な心から歎き悲しんで涙にくれました。 時に時に弘長二年(一二六二)壬戌の冬のことです。禅坊は三条坊門の北側。富小路の西側でしたので、賀茂川の東側(河東)の道をたどり。鳥部野の南、延仁寺に送って火葬に致しました。遺骨を拾って鳥部野の北、大谷に納骨致しました。  [親鸞聖人の在世の不思議なお話は、とてもここに書き尽くすことはできません。聖人が入滅したあとの利益はますます広がって、魚網にも余りある大きさです。その中にほんの僅かばかりを記して、広大な聖人の恩徳への、報謝の一端とさせていただきました頂きました。] 分和元年壬戌(一三五二・親鸞滅後九一年)十月二十八日草之畢 存覚老衲 六十三歳 巻四 終 --------------【正明伝】より

 ○<住職のコメント>

『正明伝』の最後の部分である。  筆者の存覚とは、親鸞没後33回忌を期して『御伝鈔』を著して本願寺を創建した、親鸞のひ孫、覚如の長男である。 親鸞の廟所をお守りする留守職(るすしき)は、親鸞を看取った娘、覚信尼から、息子の覚恵、 覚如と伝えられたが、その息子存覺は、父覚恵との争いで、留守職を継ぐことができず、 京都より関東に住まいすることが多かった。 覚如が本願寺創建など、関東の門弟たちと緊張関係にあったのに比して、存覚は関東教団とのつながりが強かった。 『正明伝』は、その内容に奇跡譚などがあることから、後世の創作であると言われる事が多いが、 この後書きなどから見て、私はそうは思えない。 親鸞没後91年、自分の年齢63歳で書いたということは、親鸞に直接会っていた関東の直弟子たちの話を若い頃から聞いていた、 その内容を自分の最後が近づいたこの時に、書き残しておこうとされたと受け取るのが自然であるからだ。 また、存覚は『教行信証』の注釈書として名高い『六要抄』を著すなど、多くの著書を残した、 すぐれた親鸞思想研究者でもある。 その人が、親鸞のご一生を活き活きと描写されるのは、当然ではないかと思うのだ。  さて、今月の挿絵は、瑞興寺所蔵の『御絵伝』の火葬の場面である。燃え上がる炎が誠にリアルだが、 絵の右端の人々に注目してほしい。遠くから見守る白い頭巾の集団。 彼らは当時「犬死人」と呼ばれた被差別民である。顔を隠しているのは、顔が崩れているからで、 ハンセン病の患者さんである。昔は「ライ病」と呼ばれ「業病」とされて、 まさに悪しき仏教の解釈で「前世の因縁が祟って」と言われていた。 その悪しき解釈のしがらみを破ったのが親鸞の教え「ただ南無阿弥陀佛」であり、悪人こそ救われるという「悪人正機」であった。

―――以上『顛倒』2014年8月号 No.368より―――

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