親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第70回

瑞興寺御絵伝70
建長八年(一二五六、八四歳)の春にも、聖人は病気になりました。高田の顕智おい坊房が看病にあたりました。このとのついでに蓮位房がかんvびょうにあたりました。看病にあたりました。ことのついでに、蓮位房は顕智某房に申しました。「聖人はどういう方と思われますか」。顕智房は「まさしく弥陀如来の応現だと思っています」と答えると、蓮位房はどうも頷けないという風情で「たしかにある時はまさしく権化の人と思われます。しかしある時は疑わしく見えることもあります」と言いました。顕智房はお茶を飲みながら少し微笑んで「遠からぬ日に、ほんとうのことが判るでしょう」とだけ言いました。ほどなく蓮位房は不思議な夢を見ました。その内容は、聖徳太子が現れて親鸞聖人に一礼して申しました。 敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也 建長八年二月九日の夜のことです。この聖徳太子のお心は、蓮位房をはじめ弟子たちのために、聖人が弥陀如来の応現であることを信じなければなりません。夜が明けてから、蓮位は壁に目配せして、「顕智房はもともと化生の人であるから神通力がある。畏れ多い人だ」と、一人つぶやいたということです。 正明伝より 建長(けんちょう)八歳、丙辰 二月九日夜寅時、とらのとき、釈しゃく蓮位れんに夢想むそうの告つげに云いわく、聖徳太子そうとくたいし、親鸞聖人しんらんんしょうにんを礼らいしたてまつりましてのたまわく、「敬礼大慈阿弥陀仏きょうらいだいじあみだぶつ 為妙教流通来生者いみょうきょうるずうらいしょうじゃ 五濁悪時悪世界中ごじょくあくじあくせかいじゅう 決定即得無上覚也けつじょうそくとくむじょうかくや。」しかれば祖師聖人しょうにん、弥陀如来みだにょらいの化現けげんにてましますという事明らかなり。

−−−【真宗聖典 東本願寺刊 より】−−−


 ○<住職のコメント>

今月のエピソードも『正明伝』『御伝鈔』のどちらにも載っているものです。 『正明伝』の前半の、二人の会話、特に蓮位坊の「疑わしく見える」という言葉が、いかにも親鸞さまの様子が伺えていいですね。『御伝鈔』は、親鸞さまを「聖人」と崇め立てる目的で編纂された書物ですから、こういう、人間的な部分を省いて、夢のお告げの部分だけを強調したのだと思われます。 なぜ「疑わし」かったのでしょうか。たぶん病床で、親鸞さまは、静かに休んでいるのではなく、うわごとを言ったり、昔の事を思い出して後悔の思いを示したりされたのではと思われます。若い頃、関東の佐貫で飢饉で亡くなる方々を前にして思わず、経典の霊力にすがろうと三部経を千部読誦しようとなさって、いや「ただ南無阿弥陀仏だ」と思い返して止められた事なども、晩年病床で思い起こされたりしています。 84歳になっても、老成して穏やかにしているというのでなく、「人生の本舞台は常に将来に在り」と、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせておられたのでしょう。だからこそ、蓮位坊も、先生と、尊敬はしているものの、阿弥陀如来の応現というような譬えは疑わしいと思ったのでしょう。これなどは、親鸞さまの命終の時の、娘、覚信尼の「本当に浄土に往生なさったのでしょうか?」という疑問に通じるもの があります。まことに人間的な方だったということです。 さて、夢のお告げの内容は、聖徳太子が親鸞聖人を礼拝して、「大いなる慈悲の阿弥陀仏を敬い礼拝します。(あなたは)妙なる教えを伝え弘めるためにお生まれになったのです。この五濁悪時悪世界の中で、決定して、この上無き覚りを、得られました」と言われたという事です。親鸞さまが、常に聖徳太子を大事にし、敬っておられた事が、このように逆な形で、お弟子さんの夢に現れたのでしょう。

―――以上『顛倒』2014年5月号 No.365より―――

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