親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第46回

 聖人四十五歳、建保五年丁丑夏のはじめ、常陸国・笠間郷稲田という所の草庵に移り住みました。 その理由は、去年の仲冬に小嶋の郡司が亡くなって、聖人も大変さびしく感じていたこところ、 常陸の国中で教えを聞いてきた人々が小嶋を訪ねて「ここはこの国のはずれになります。 郡司殿もすでに往生されましたので、心にかかることもないはず。 笠間のあたりは熱心な人が多いので、今度はそちらへ移って教化に専念されてはいかがでしょう」と申し上げたので、 聖人はその申し出を受け入れて、笠間へお移りになりました。その草庵が笠間御坊です。

 ここでの居住は十有余年です。 はじめはひっそりと住んでいましたが、僧俗共に教えを求めて訪ねる人が増えて、 戸を閉ざすことができないほどに、いろいろな人が集まるようになりました。 この時に聖人は、救世菩薩のお告げのとおりであることに気づいて、身に余るほどの喜びを味わいました。

−−−【親鸞聖人正明伝】より−−−


     常陸の下妻「境の郷」にいたとき、法然と夫親鸞をそれぞれ、阿弥陀如来の左右に仕える勢至菩薩(知恵の菩薩)、 観音菩薩(慈悲の菩薩)の化身とする夢を、ある夜恵信尼は見た。

法然を勢至菩薩とみる夢を見たことは、夫親鸞に告げたが、夫を観音菩薩とみる夢のほうは告げなかった。 「殿(親鸞)を観音とみたことは申しませんでしたが、心のうちでだけは、その後は決して普通の方と思うことは、ありませんでした。」

−−−【恵信尼消息より・恵信尼が見た夢の記述。意訳】−−−


 ○<住職のコメント>

瑞興寺本堂欄間
瑞興寺本堂欄間
 親鸞の関東時代で一番有名な場所、「稲田草庵」が『正明伝』に出てきました。 文献には、「親鸞は、建保2年(1214年)に 常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて草庵を結んだ。」とあります。 私も一度訪れましたが、現在その跡地には、西念寺という、 浄土真宗の単立別格本山(嘉元2年・1304年開基)があります。 親鸞はこの地で『教行信証』の製作を開始し草稿本を撰述したと伝えられ、真宗門徒の崇敬を集めています。 一方、現在新潟県上越市高田に浄興寺という、昭和27年に大谷派から独立した、 単立別格本山があり、その寺伝によると、浄興寺の名は、 浄土真宗興行寺のことで、稲田草庵の直接の伝統を引いていると述べています。 すなわち、1263年に浄興寺が稲田から移転した後の、1304年に跡地に西念寺ができた。 というのですが、「まゆつば」の類かもしれません。 このお寺も一度訪問したことがありますが、50ケ寺ほどもお寺が立ち並ぶ寺町の中に在る、 立派なお寺で、私が、「越後は豊かな土地であり、親鸞の流罪時代も、そう苦しい生活ではなかったはず」 と考えるひとつの根拠になっています。 さて後半の文章は、親鸞の妻の恵信尼文書の意訳ですが、同じような時期の出来事を述べた部分です。 「夫を観音菩薩と見ていた」こと、「それを本人には告げなかった」ことが記されていますが、 親鸞も恵信尼を菩薩と見ていたとも伝えられ、信頼し合った夫婦のほのぼのとした関係が伺えます。 近世、近代の男女と違って、中世の女性は、現代以上に自立していて、 恵信尼も自分の弟子を持つほどの女性であり、親鸞とは、夫婦である以上に、 信心の同志、朋友しての関係であったようです。

―――以上『顛倒』2012年3月号 No.339より―――

真実の言葉メニュ

次へ

Copyright © 真宗大谷派瑞興寺  このサイトの著作権は真宗大谷派瑞興寺に帰するものです。無断転用転載禁止。  ご連絡E-mailは コチラまで