親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第19回

善導大師『観経疏玄義分』
善導大師『観経疏玄義分』

 同建仁辛酉十月上旬、月輪殿下九条兼実公が吉水禅坊にお越しになって、 いつもより熱心に仏法談義をされた中で言われたことは 「法然上人の大勢の弟子たちは、すべて行い清く智慧すぐれた出家の僧侶ですが、私だけが在家です。 出家の念仏と我ら在家の念仏とでは、その功徳に違いがあるでしょうか」と尋ねました。 法然上人は「出家と在家とはまったく同じであり、功徳に優劣はありません」と答えました。 それに対して月輪殿下は「そのところがもっとも不審に思われます。というのは女性に近づかず、 不浄のものを口にせず、身を清く保つ僧侶の身で念仏を申せば、功徳は必ず尊いものがあるはずです。 日々女性に慣れ親しみ、酒を飲み肉を食しながら念仏を申すことが、どうして劣らないと言えるのでしょうか」と再び尋ねました。 法然上人の答えは「それは聖道自力門でいうことです。浄土門のこころは、弥陀は十方衆生の救済を誓っているのですから、 持戒と無戒を選ぶことなく、在家と出家の違いもありません。善導大師は「一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏、 大願業力為増上縁也」と明確に決別しておられます。疑う余地はまったくありません」と言われました   

―――正明伝より ―――

           

 ○<住職のコメント>

  親鸞さんをあらわす「肉食妻帯」と言う言葉があります。 日本で初めて、いやたぶん世界で初めて公式に「四足の肉を食らい、妻をめとったお坊さん」という意味です。 なぜそれが僧侶に禁じられていたかというと、お釈迦様の一番基本的な教えである、五戒(殺すな、盗むな、うそをつくな、 酒を飲むな、邪な性交をするな)があるからです。 九条兼実は、「五戒を犯しているような者が念仏だけで救われるのか」と問い、 法然さんの答えは「念仏できるならどちらでもよい」です。
 その通りなんでしょうが、不親切です。兼実も判らなかったのではと思います。 私は、親鸞さんは法然さんの教えを具現化した方、念仏を通した五戒を実践した方、 すなわち、戒律だけに留めないで、積極的な展開をした方だと受け止めています。 それは、「五戒を守れる人間などいない」ということです。そして「五戒」の意味とは、 「殺すな」とは殺している(他のいのちを食べている)私に気づかせるため。「邪な性交をするな」とは、 邪な(一方が一方を踏みつけるような)男女関係になっていることを気づかせるため。「酒を飲むな」は、 人間関係を壊すような酒を飲んでいないか知らせるため。それらの教えを受けて初めて私の上に、 殺し過ぎない、いのちの関係を開く生き方が始まってくるのでしょう。

―――以上『顛倒』09年7月号 No.307より―――

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