親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第50回

親鸞聖人御絵伝
親鸞聖人御絵伝

ある年の秋、聖人は常陸の国府から稲田の草庵への帰路、日が暮れてしまったため、 いつも行き帰りに通った大増の道に出て、板敷山の坂道を越えたことがありました。 常陸国上宮村に、播磨公という山伏がいました。 また天引のあたりに天引小川房という者、那珂郡に小山寺吉祥という者がおり、みな同じ修験者の仲間でした。 その中で播磨公は以前から聖人の教化が盛んなることをねたみ、三人共謀して板敷山に忍び、 聖人を殺害しようと機会をねらっていました。しかし何回試みても遂げられません。 行き違うことをつくづく考えると不思議な思いを抱きました。 一度、聖人に会って確かめようという気持ちが起こり、弓矢と兵仗を身に着けて、稲田の草庵へ出向き取次ぎを頼みました。 弟子たちは驚いて「日頃から噂に聞く曲者が乱入しました。 まず私たちが応対しましょう」と言うと、聖人は「心配することはない。私の思うところがあります」と答えて笑みをうかべて、 衣を着けず白衣のままで、すぐにお会いしました。 播磨公は聖人の尊顔を目の当たりにあたりにしました。聖人は言うまでもなく、額が広く鋭い眼の顔だちで大人智者の人相です。 播磨公は修験道の山伏なので、人相についてよく知っていました。 一目見るなり我状は折れてたちまち帰依の心が起こり、聖人への害心は瞬時に消え失せました。 庭にひれ伏して、抱いていた心を申し上げると、聖人は驚いた様子はなく「待っていたのです。 今日はよい弟子を得たいと思っていましたが、はたして貴方がいっらっしゃいました」と喜びに堪えない様子でした。 播磨公はこの方こそ生身の如来であると空恐ろしく感じて、たちどころに弓矢を折り刀杖を捨て柿色の衣を脱ぎ捨てすてて、 今までの心を悔い改めて聖人の弟子となりました。明法房証信がこの人です。 楢原というところに居住して、聖人に先立って往生を遂げました。。

−−−【親鸞聖人正明伝】−−−

 

 ○<住職のコメント>

 先月取り上げた『御伝鈔』の「山伏弁円」の物語が、『親鸞聖人正明伝』では、 どうなのかを、今月取り上げました。基本的には同じ内容です。
「常陸国で親鸞は稲田草庵への帰り道に板敷山を通った」
「その時、親鸞をねたむ山伏が待ち伏せた」
「出会えないので、山伏は不思議に思った」
「弓刀を持って稲田へ押しかけた」「親鸞は驚かず、すぐに会った」
「親鸞の顔を見てすぐに山伏は改心した」「弓矢刀杖を捨て、柿衣を脱いだ」
「弟子となった山伏を明法房という」
と、すべて同じですが、細かく見ると、『正明伝』の方が詳しく記述してあります。
 
『正明伝』 
『御伝鈔』
山伏の名前
ナシ
山伏3人
1人
稲田草庵での様子
ナシ
尊顔を見、人相を見て
尊顔に向かいて
親鸞の言葉
ナシ
ナシ
親鸞が名付けた
明法房のその後
ナシ

 この二つを比べて見ると、より詳しい物語の『正明伝』が先にあり、 それを基にして、儀式に用いる『御伝鈔』が、内容をそぎ落とし、言葉を磨きあげて、 出来上がったと見るのが、自然だと、私は思います。
 『正明伝』には、「山伏弁円の話」の前に「大蛇を救う話」があり、 後には「亡き妻の魂を救う話」が書いてあって、『正明伝』が偽作であるとの根拠にされています。 しかし、物語とはそういうものではないでしょうか。 関東で精力的に布教されていた親鸞の姿が言い伝えられて、 奇譚(きたん・不思議な話)としてまとめられていったのだと、私は思います。
 大切なことは、親鸞は、迷信に惑う人たちを決して切り捨てることなく、寄り添った人であろうということなのです。

―――以上『顛倒』2012年7月号 No.343より―――

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