親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第55回

親鸞聖人御絵伝
親鸞聖人御絵伝

 聖人はある年の夏の初めに、常睦国・霞ヶ浦の浜辺近くに往くことがありました。
 あたりの漁民が「近頃、海上にたいへん光るものがあります。そのせいか魚もこの浦に近寄ってきません。 いったいどういう凶事なのでしょうか」と言うので聖人は不審に思って、ある日汀に行って眺めていると、 光るものが漁師の網と一緒に近づいてきました。聖人はおおいに喜んで、不思議な縁を感じ取って、 衣に包んで稲田の草庵にお持ち帰りになりました。聖人が駿河の国の阿部川を渡ったとき、奇瑞を現した仏様がこの仏像でした。

−−−【親鸞読本より】−−−

 

 ○<住職のコメント>

この『親鸞聖人正明伝』の逸話も、とても興味深い内容です。
「仏像が網にかかる」なんて出来すぎたお話しの様ですが、昔からよく言い伝わっているお話しなのです。
 親鸞さまの和讃に次のようなものがあります。

 善光寺の如来の われらをあわれみましましてなにわのうらにきたります  御名をもしらぬ守屋にてさらりと読むと「善光寺の阿弥陀如来は私たちをあわれ み救うために、百済(朝鮮半島の国)からはるばる日本の難波(大阪)の港に(船で仏像が送られて)来た」ですが、 これなどは「難波の浦で漁師の網にかかった」と観るべきだと思います。

 例えば、石川県の片山津温泉に在る愛染寺の地蔵菩薩像は「柴山潟の湖底から漁師の網にかかり引き上げられた、 仏さまで、湖底からこの世に出たと云うことで出世地蔵と名付けられた」とありますし、 愛知県知多の日間賀島の、安楽寺の寺伝には「その昔、となりの島が陥没して寺が流され、 その後その寺の仏像が漁師の網にかかり、仏像を守るようにタコがからみついていた。 それからこの如来像をタコ阿弥陀と呼ぶようになった」と、ニヤリとするようなお話があります。
また、瑞興寺と親しい十三の大谷派のお寺の御本尊阿弥陀如来も、その昔大阪湾から引き揚げられたという言い伝えを持った仏像です。


 この知多のお寺に具体的に書いてあるように、昔は今よりも洪水で流されるお寺も多く、 その仏像が後に引き上げられることは、ままあったのではと思われます。 そして、引き上げた者にすれば、それは「不思議な御縁で巡り合い頂いた仏像だ。大切にしよう」となったと思います。

 この『正明伝』の仏像もまさにそのようにして漁民の網に掛ったのでしょう。 それは金泥の阿弥陀仏像ですから、善光寺如来の一光三尊佛と思われます。 もしかしたら、善光寺聖が背負って歩いていた仏像かもしれません。 このように、善光寺の阿弥陀信仰は、善光寺聖によって広く津々浦々にまで伝えられて、民衆の生活を支えていたことが伺えます。 また親鸞さまも漁民たちといった、地べたの生活者と親しく交わられていたことが、よくうかがえるお話しです。 こういった事実は、「親鸞さまの教えと差別問題」にも深く関わる大切なポイントです。

 最後、「駿河の阿部川で奇瑞を現す」とありますが、それは数年後、親鸞さまが、 京都への帰路、安倍川を渡してくれたのが、この阿弥陀様だったという逸話ですが、またこれはその場面です。

―――以上『顛倒』2012年12月号 No.348より―――

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