親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第9回

 建久二年(1191,19歳)辛亥の年、七月中旬の末でした。 法隆寺へ参詣したい旨を慈円僧正に伝えると許しがあったので、 早速に出立して西園院覚運僧都の坊に七十日ばかり滞在して、因明学を学びました。 遠出したついでに九月十日ごろに河内の国、磯長の聖徳太子の御廟に参詣しました。 十二日の夜から十五日まで、三十三夜にわたり参籠して繰り返し祈願すると十四日の夜に霊告がありました。


<御自筆ノ記分ニ曰ク

      我ガ三尊ハ塵沙ノ界ヲ化ス
      日域ハ大乗相応ノ地ナリ
      諦ニ聴ヶ諦ニ聴ヶ我ガ教令ヲ
      汝ノ命根ハ応二十余歳ナルベシ
      命終リテ即ニ清浄土ニ入ラン
      善ク信ゼヨ善ク信ゼヨ真ノ菩薩ヲ

〔現代語訳〕
 阿弥陀仏、観音、勢至菩薩の三尊は、塵や沙のごとき庶民の世界をお救い下さる。 日本こそ、そのような「大」きな「乗」り物たる仏教に相い応しい地である。 私の教えもしっかりと聴きなさい。 あなたの命は十数年ですよ。この世の命を終えてすぐにお浄土にかえることができるでしょう。 善くしんじなさい。善信房《親鸞の房号》よ。真の菩薩さまを。

―――親鸞聖人正明伝より ―――

           

 ○<住職のコメント>

 親鸞聖人の伝記に〔三夢記〕という3つの夢のお告げがある。 これは、その最初19歳の時のものである。 現代の感覺で夢のお告げなどと言うとオカルトっぽい疑わしい話に聞こえてしまうが、 当時としては、当たり前のことであり、 夢に見るほどにその課題を深く考えておられたのだと受け取るべきであろう。

 ここで、「日本にこそ大乗仏教の《必要な》地だ」という願いを、 法隆寺、磯長御廟という聖徳太子に縁の深い場への参詣を通して持たれたことが重要である。 聖徳太子とは、その昔日本国の摂政として、新しい思想、仏教で、 この日本という国を治めようとなさった方である。

 その後、旧勢力との戦いの中で道半ばでなくなっていかれるが、太子の課題を親鸞さまは、 自分の願いとされたということだろう。親鸞さまの教えが具体的に 人々を種種の人生の苦悩から解き放つ出発点がここにある。

―――以上『顛倒』08年7月号 No.295より―――

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