親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第42回



 五年の後、順徳院の御字、建暦元年(一二一一、三十九歳)辛未十一月十七日、流罪が赦免になりました。 勅使は岡崎中納言範光卿です。この方は聖人の猶父・三位範綱卿の実子です。

鴨川の東、岡崎に別に住まいを持ち、そこに通い住んでいるので岡崎黄門と号しました。

十二月の上旬、中納言が越後に到着して、赦免の言葉を伝えました。

けれども聖人は心にわだかまりが残っていたため、 御礼の請文だけを差し上げて、その年は越後に留まりました。

その請文に「愚禿」と署名したため、まことに心にくい奏状であると、朝廷も臣下も褒め讃えたということです。

−−−【親鸞聖人正明伝】より−−−



 

 ○<住職のコメント>

 5年の流罪が許された後、『御伝鈔』では「しばらく在国」、『正明伝』では「その年は越後に留まる」とあり、 宗祖親鸞は、勅免後も、しばらくは越後に残られたようです。 生まれたばかりの子どもたちのことを考えられたのでしょうか。

 さて今月は、これらの文献の中の「愚禿」の言葉について考えてみます。 どちらの文献も、「愚禿」の名乗りを、「天皇が感心した」などと軽く書いていますが、 宗祖の御心には、もっと深いものがあります。
それが『御伝鈔』にある「非僧非俗」という言葉です。
これは「お上に認められた僧でもない。しかし俗人でもない」という意味ですが、 これこそが、宗祖親鸞の自覚的な「僧侶」の名乗りなのです。「僧侶」とは、「僧伽(サンガ)」の「侶(トモガラ)」で、 本来は、サンガ(自由で水平な人々の交わりの場)のメンバーという意味ですから、 国家が認めようが認めまいが関係がありません。しかし、宗祖の当時は、朝廷が認めた者だけが僧侶でした。 そのような状況の中で、宗祖親鸞は、「非僧非俗」という言い方で、「本来の僧侶となる宣言」をされたわけなのです。
そして実はその状況は、今も同じなのです。今は宗派が僧を認定しますが、 それは、「宗教法人法」で国に認められた宗派が行うのですから、間接的な国の認定なのです。 「それがダメ」と言っているのではありません。
「宗派、国の認定をもらっただけでは、本当の僧侶とは言えない」ということです。

さらにこれは、「在家仏教」である、浄土真宗の僧侶にとって、より深い課題でもあります。 頭も丸めず、全く俗人と同じ生活をするのが、真宗僧侶ですから、そこでなおかつ「僧侶」と何処で言えるのか。 「同じなのだけれど違う」という課題を担っているわけです。 まさに言葉の本来の意味、「いのちが水平に出会う場を開いているのか」という、動き、生活こそが、その証しであるのです。

―――以上『顛倒』2011年10月号 No.334より―――

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