親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第8回

 比叡山は、弘仁九(818)年、 伝教大師が『山家学生式』等を著してひらいた国家公認の最高学府であり、 正式の名を『一乗止観院』といい、平安朝四百年の精神文化の基盤となった。 日本中から、学問をしたい人がそこに集まり、学ぼうとする道心のある人こそ国の宝であるとされた。

 それは、人間が人生という一つの学校において、 自らの生命を燃焼するに値するどのような宝を見いだすべきかという問題をあらわしている。 そこに集うみなともに、いかにすれば人間の真の自由と解放が自覚的になしとげられるかという 「仏法」を学んでいた。 それが人間の真の解放者、釈尊の宣説された教法であった。

 しかし釈尊が行なったこと、教えたことを型通り実行できたとしても、 それで人間がそのもてる束縛から解放されるとはかぎらない。 大事なのは行為よりも行為の理由であると古代ギリシャの哲学者、ソクラテスはいったが、 どのような心、意欲によってなされたかによっては、 修行といっても単に形式に流れてしまうこともあるであろう。

―――東本願寺刊『親鸞読本』より ―――

           

 ○<住職のコメント>

太子像
瑞興寺像:聖徳太子像父孝養の図
 親鸞の学んだ当時、比叡山は型にはまったような存在になっていたと伝えられている。 そのありさまは、親鸞に真の人間とは何かということを考えさせずにはおかなかった。
しかし、それはいよいよ疑問を多くするばかりである。 その声の正体をつきとめようとして、苦行もし、19歳の頃には、 河内の磯長(しなが・現大阪府太子町)にある聖徳太子の廟に参籠して祈願もした。 けれども迷路は深まるばかりで、気がついてみるとそこに人の姿はなく、盗賊と野獣の群れが横行していた。

 先日、河内三太子(大阪府東南部、河内地方にある、聖徳太子ゆかりのお寺、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺)の寺宝展を、 大阪は天王寺公園にある、大阪市立美術館で観てきました。 中でも、特に私(住職)が心惹かれたものは、叡福寺所蔵の聖徳太子の絵伝です。 8幅もあって、事細かに聖徳太子の事蹟が、前生譚(ぜんしょうたん・生まれる前の出来事)から、 御一生のいろんな出来事、そして没後の出来事までが事細かに描かれていました。 同じように、瑞興寺には親鸞聖人の御絵伝があります。 生涯が事細かく描かれており、その絵を見、その事柄を語る『御伝鈔』の内容を聞いて、 時間的に言えば「とうの昔」に亡くなっておられる親鸞聖人に、今ここで出会い、信仰を育てているのです。

 そうか「聖徳太子をしのぶ方々と同じ方法で、我々真宗門徒も親鸞さんをしのび、 出会いなおしているのだな」と、「この形が日本の伝統なんだな」という感動がありました。

 こう観てきますと、まさに「念仏『ナムアミダ佛』は生活だ」ということを感じます。 「宗教は心の問題だ(だから行動は別問題だ)」と言うような方もおられますが、 心と身体が別に在るわけでもありません。心が変われば自分自身の行動も変わるし、 毎日毎日の自分の生活が結果として変わるわけです。

 ある法事の場で「亡くなったお母さんが出てくる。おかしいですか」という質問を受けたことがありました。 私は、「見えても見えなくてもどちらでもいいですよ。どちらにしてもおられるのですから」とお答えしました。 現代人は即物的に、すぐに「在るのか無いのか」と言ってしまいます。 例えば「浄土はどこに在るのか」と問い、どこと言えなければ「無いのか」と決めてしまうのです。 が事実はそんな、YESかNOか、白か黒かだけのものなのでしょうか。 そんな方に聞きたいのです、「愛は在りますか」と・・・。 「心」も「仏様」も「浄土」もそんな存在なのです。在る処には在るし、無い処には無い、のです。

―――以上『顛倒』08年6月号 No.294より―――

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