親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第75回 最終回

御絵伝300周年に思う 
 本山、東本願寺の宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要(2011年)を前に、 『顛倒』の表紙で、親鸞の伝記の連載を始めたのが、2007年8月でした。 今年の9月号で、後の本願寺建立に至る、親鸞没後の廟堂建立を取り上げて、 この連載を終わりますが、その今年の瑞興寺の報恩講(10月11,12日)では、 御絵伝の300周年記念法要 を兼ねてお勤めいたします。

瑞興寺御絵伝75


 ○<住職のコメント>

『御絵伝(ごえでん)』と『御伝鈔(ごでんしょう)』
 『御絵伝』とは、親鸞の生涯を説いた書物『御伝鈔』の内容を絵物語で描いた掛け軸です。
『御伝鈔』は親鸞を看取った娘、覚信尼(かくしんに)の孫、覚如(かくにょ)が親鸞の33回忌を期してまとめた、 本願寺の正統性を主張する為の書物です。 専修寺や仏光寺といった、親鸞の弟子たちの流れを引く教団が出来つつある中で、 親鸞の血統に併せて、教えの正統性を主張しました。 この正統性を基に、覚如は本願寺教団を創るのですが、 仏光寺などの隆盛に比べて「さびさびと」していました。

蓮如(れんにょ)による本願寺教団の拡張
 それが、親鸞の八代目の孫、蓮如という宗教的天才を得たことによって、 現在の東西本願寺教団に繋がる大教団に成っていくのです。 蓮如は、仏光寺系や専修寺系の寺院の一部を吸収し、 民衆に根付いていた「和讃門徒」や「聖徳太子信仰」などを吸収して、大教団を作り上げました。 その思想的な礎となったのが、『御伝鈔』であり、それを眼で明らかに観えるように示した『御絵伝』でした。 今も全国の各寺院の『報恩講』で、『御絵伝』がおまつりされ、『御伝鈔』が読まれています。  瑞興寺でも、以前はそのようにお勤めしていましたが、 『御伝鈔』は古文で書かれていて現代では分りにくいものですので、 現在は『御伝鈔』の内容の現代語訳に当たる文章を毎年読んでいます。 そして『御絵伝』は変わらず、本堂左側の余間に掛けておまつりしています。

『御絵伝』の許可
 現在の『御絵伝』が瑞興寺に許されたのは、江戸時代の中ごろの正徳三年(1713)五月です。  瑞興寺の建立は1540年頃ですが、1580年の石山本願寺落城、1602年の東西本願寺分立を経て、 1617年に東本願寺開基、教如上人の三男、 東本願寺第二世(本願寺13世)の宣如(せんにょ)上人より『親鸞聖人絵像』を受けています。 それから96年、『御絵伝』が許されました。裏書は第17世真如上人です。 この時期に『御絵伝』を得たということは、お寺の基盤が充実してきたことだと思われます。 寄進者は麹屋九兵衛、法名、釋春悦(しゅんえつ)、十八日講中の瑞興寺門徒でした。

『御絵伝』盗難のエピソード
 文政元(1818)年11月、『御絵伝』の第二軸が盗まれました。 11月6日から8日の報恩講で用いた軸を9日に取り外し置いていたところ、 16日の朝に無い事が判り、17日に大坂西町奉行所へ訴え、平野役所、惣会所、輪番所へも届け出ました。
 その夜、奉行所から通知があり、翌朝出向くと盗人は捕まっていて御絵伝も無事でした。盗人は実道という僧侶で、翌文政二年3月、牢中で死去しました。
 牢内で何があったのでしょうか。
死ぬほどの罪では無いように思いますが、このエピソードからも、 多くの人たちのいろんな思いの込められた『御絵伝』を大切にし、 親鸞の生涯に我が生きざまを照らし合わせ学ぶ、 今に活きる『御絵伝』を相続していかねばならないと、思いを新たにしています。
 一般には四幅ですが、狭い本堂用に、二幅や一幅のものもあります。
 今も厳密に言うとそうなのですが、各寺院の本尊や掛け軸から卓に至るまで、 本堂内陣のお荘厳は全て本山の許可を得て、初めておまつりができるようになるのです。
 遺(のこ)された門弟たちはお聖人様の御命日になると、聞法の集まりの場を開いていきました。 お聖人様の三十三回忌には、お聖人様の曾孫にあたる覚如上人が『報恩講式(私記)』を著し、 ご命日に拝読されるようになって、 ご命日の法要がお聖人様の恩徳(おんどく)に報いるという意味を持つようになりました。 この法要が後に「報恩講」と呼ばれるようになり、 今もなお、最も大切な御仏事として、各寺院・ご門徒宅で勤められています。

―――以上『顛倒』2014年10月号 No.370より―――

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