親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第40回

御伝鈔
御伝鈔


 承元元年(一二〇七)末のころより、 親鸞は越後の国、国府(直江津市)で流人としての生活をはじめる。 延善式の規定によると、流人は貴賎男女大小の別をとわず、一日米一升と塩一勺を給与され、 来年の春になると種もみが与えられるが、秋の収穫がすめば、、米・塩・種子の支給は一切たたれて、 自給自足の農耕生活を強いられるという。親鸞はこの流人生活を縁として、愚禿(ぐとく)と名のるようになった。

−−−【親鸞読本】より−−−


善信聖人は十三日の行程を経て、三月下旬第八の日(三月二十八日)、郡司小輔年景の館に到着しましたしました。 聖人は流罪の五年の間は、髪を剃らずに有髪で通したので、愚禿と名乗ることになりました。


−−−親鸞聖人正明伝 より−−−



 ○<住職のコメント>

 親鸞の流罪の地、越後での記録はほとんど残っていない。
『御伝鈔』では、この二行だけだし、いろんな事を詳しく述べる『親鸞聖人正明伝』でも、この四行だけなのである。 当時は、物事を記録する人が都にしかいなかったのが原因かなと、私(住職)は考えている。

  記録がほとんど無いものだから、いろんな想像がされて、47年前に書かれた、東本願寺の『親鸞読本』には、 『延喜式』の規則から類推して、こう書かれている。 しかし私は、親鸞は「民衆の中で生きられた」とは思うが 「自給自足の農耕生活を強いられた厳しい生活」という見方には大きな疑問を持っている。

  それは数年前、流罪800年を記念して、越後の居多ケ浜での法要に参加して、 聖人流罪の地を初めて訪れたときの印象によることが一番大きい。 現代の、我々の感覚からすると、「越後といえば雪深い田舎で、生活も大変なところ」と思うのが普通だろうが、 私の印象は「ここは豊かな土地だな」であった。 その一つが、高田(現上越市)の寺町である。 そこには50軒を超す立派な寺院が立ち並び、中には、浄土真宗の小さな宗派の、本山まで建っていた。 これほどの寺を維持できたということは、その持つ経済力は小さなものではない。

 その傍証だが、明治時代に初めて国会議員の選挙が行われた時、 当時は一定の納税額のある男性にしか選挙権はなかったのだが、その有権者の人数で、新潟県は東京府より多かったのである。 越後は、米の取れる豊かな土地である。 確かに冬の雪は大変だろうが、家々は自給自足で、出歩く必要もなく、家の中でゆっくり暮らしておられたのだろうと思う。
居多ケ浜でも、すぐ冬の日本海の荒波を思って、「大変な」イメージを持ってしまうが、 聖人が船で着かれた季節は、春3月末、今の5月初めだから、穏やかな暖かい海が広がっていただろう。

 越後はすでに専修念仏の教えが広がっていた土地である。
そこに、都で修業を積み、教養もたっぷり身に着けた親鸞が来たのである。

親鸞にたとえその気がなくとも、周りが放っておかなかったと、私は思う。

―――以上『顛倒』2011年8月号 No.332より―――

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