親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第52回

親鸞聖人御絵伝
親鸞聖人御絵伝

聖人(しょうにん) 越後国(えちごのくに)より常陸(ひたち)に越えて、 笠間郡稲田郷(かさまのこおりいなだごう)といふところに隠居したまう。 幽棲(ゆうせい)()むといへども 道俗後(どうぞくあと)をたずね、蓬戸(ほうこ)()ずといえども、 貴賤(きせん)(ちまた)(あふ)る。 仏法(ぶっぽう)弘通(ぐずう)本懐(ほんがい)ここに成就(じょうじゅ)し、 衆生利益(しゅじょうりやく)の宿念たちまちに満足す。 このとき聖人仰せられて(のたま)わく、 「救世菩薩(くせぼさつ)告命(ごうみょう)を受けし (いにしえ)の夢、既に今と符号(ふごう)せり。」

−−−【御絵伝】−−−

 

建保二年以降しばらくして、親鸞は、常陸国笠間郡稲田郷に旅装をとき、 長く定住することとなった。この地を中心に教法社会、僧伽(さんが)が形成され、 その範囲は下野国・常陸の国・下総国・武蔵国・越後国かたら遠く奥州にまでおよんだ。 しかしここ関東において一寺を建立し要路しようという意図はなかった。 すこし人と区別して小(むね)あげて作った道場や、如来堂・太子堂といった部落に辻堂に人々が集まる。 彼らは名号(みょうごう)本尊を仰いで、静かに親鸞を通して仏法を聞いた。 この僧伽の根底に流れるものが、弘誓(ぐぜい)一乗海と称せられるのである。

−−−【親鸞聖人正明伝】−−−

 ○<住職のコメント>

今月は、『御伝鈔』と東本願寺刊「親鸞読本」の文章です。先ず『御伝鈔』を訳してみましょう。

 親鸞さまは、越後から常陸を越えて、笠間郡稲田郷に静かに居をかまえられました。 世間から隠れて住まいするつもりでしたが、僧侶や一般の民が訪ねて来られる。 粗末な草むした戸を閉じても、身分の高い低いに関わらず、多くの人たちであふれかえりました。 これは、仏法を広く伝えようとする本来の願いが成就し、人々を救いたいという念願が満足したことです。 親鸞さまは、これを、「若い頃、人々を救えと、救世菩薩が言われた、夢のお告げの通りだ」と、仰いました。

 親鸞さまが、稲田草庵を拠点に、関東一円に積極的に布教の歩みを続け、 それに呼応して、親鸞を慕う人々が、多く稲田に集まられたことが伺えます。 その有り様は「親鸞読本」の通りでしょう。まさに『サンガ』、すなわち、 あらゆる人々が水平に出会う場、現世において浄土が開いた場が形作られ、 その動きは、関東一円から遠く奥羽まで広がっていたのでしょう。 ただ、「一寺を建立しようという意図はなかった」という記述には頷けないものがあります。 これは『歎異抄』の有名な言葉、「親鸞は弟子いちにんも持たずそうろう」に通ずる言葉ですが、 そこに「親鸞読本」が書かれた、昭和35年頃の「お寺憎し」の風潮を感じるのです。 確かに現実の寺院は組織化し固定化し、世界に開かれた場とはなってはいません。 ですから、それを打ち破ることが、目標だったのです。 そういう風潮が、「親鸞は一寺も建立せず」という表現に、過度に重きを置いてしまったのではないでしょうか。 ここで考えてみたいのです。閉鎖的なのは「寺」の責任ですか。私はそうは思いません。 本来の寺とは、世界に解放され、仏法を、広く伝える場であったはずです。 しかしそれを、そこに居住する人間が既得権化し、閉ざしていったのではないでしょうか。 まさに一般社会で、特権者がそれを手放すことをこばむように。 ですから、「意図はなかった」と言う必要は無いと思います。 「親鸞読本」で、述べられる、「道場」「人の集まるお堂」こそが「寺」なのです。

 今、現世にあって、「寺」を預かる一人として、その使命は、閉鎖しがちな人間の性向を、 深く見据えつつ、その「寺」が、常に解放されようとしている「場」であるかを、問い続けることであろうと思い定めています。

―――以上『顛倒』2012年9月号 No.345より―――

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