親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

第69回

聖人が八十歳の正月の頃、病気を患いほぼ絶食に近い状態でしたが、三月の初めに回復いたしました。そこで三月の初め頃から『文類聚鈔』を書くことになりました。 正明伝より


 ○<住職のコメント>

この文類聚鈔とは「浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)」の事で、親鸞さんの 主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の要約です。『教行信証』が、仏典だけでなく 『論語』など多様な思想書を引用して、広い視野で、浄土の有り様を明らかにしようと されるのに対して、本書は、浄土三部経と龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・善導大師を 引くだけで、簡略化されているところから『略文類』ともいわれます。  私たち真宗門徒に一番身近な経典として『正信偈』がありますが、これは『教行信証』 の行巻に書かれています。それに対して、「浄土文類聚鈔」には、『正信偈』の内容とよく 似た偈文が『念仏正信偈』という名で書かれています。お勤めでは、この偈文を『文類偈 (もんるいげ)』と呼び、瑞興寺では、毎年秋の報恩講の最後のお座で勤めています。「西方 不可思議尊(さいほうふかしぎそん)」という特徴的な言葉で始まるお勤めで、この言葉を聞 くと、「ああ!あれね」と思われるご門徒も多いと思います。 その内容は、簡潔に『教行信証』の肝要が記されています。すなわち、臨終来迎に対し て、平生業成、不来迎の義が説き示されています。これらの言葉を解説します。 ◎臨終来迎(りんじゅうらいごう): 普段、念仏を努めて称えている人の所へ、この世の いのちの終わりに臨んで、阿弥陀佛が観音菩薩、勢至菩薩を伴って、お迎えに来て下さる という教え。一般には「お迎え」と呼びならわされてきました。 京都三千院の往生極楽院の阿弥陀三尊像、4月にバスで出掛けた極楽山浄土寺の阿弥陀 三尊像などが、臨終来迎の教えに基づいた佛像です。昔は当たり前の教えであり、「今は 苦しいけれど、信心を大切にしていれば、極楽へ行かせてもらえる」と、現世を生き切る ↑【正明伝 大きな支えになってもいました。                             より】 ◎平生業成(へいぜいごうじょう): 臨終といった特別な時ではなく、ふだん生きている平生に、往生の業事が、完成する、という教え。生きている今、救われるということです。即得往生(そくとくおうじょう)とも言います。今、即に往生を得るということで、親鸞さんの浄土真宗の一番の特徴です。 ◎不来迎(ふらいごう)とは、臨終の来迎を待たなくともよいという意味です。  だから、臨終来迎の教えでは、もし臨終に来迎がなければ、極楽浄土へは往けないことになります。 来迎を頼みにしている人たちは、臨終の時まで、必ず浄土へ往けるという、往生一定(おうじょう いちじょう)の確信、安心がありませんから、結果としては、不安に充ちた生活を送らねばならない事になります。だから、少しでも安心しようと、臨終に阿弥陀佛の木像の手に糸を引っかけ、その糸の端を死んでいく方に握らせ、極楽へ引っぱってもらおうとする儀式まであります。それに対して不来迎というのは、そんな臨終のことが、全く問題にならなくなるという事です。 ナムアミダブツ申す事によって、今救われる。たった今から、本当の私を私として生きる、楽しみの極みを生きて往くことが始まるということです。新大阪駅で指定券を買って、「のぞみ」に乗り込んだようなものです。何もせずとも東京へ連れていってくれます。 今、浄土を願って生きて往くことが始まるのです。 カット『まんが 親鸞聖人』南御堂刊より 『取意抄出』ではないかと推定される。この書は (一)浄土文類集曰、(二)相伝云、(三)般舟讃云、(四)龍樹偈云、(五)涅槃経曰、(六)華厳経曰という展開になっていて、主として臨終来迎に対して、平生業成、不来迎の義が説き示されている 『教行信証』(広文類)が、仏典だけでなく、他の典籍までも引用して、広い視野のもとに浄土の教相を明らかにしようとしているのに対して、本書は、浄土三部経と龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・善導大師の四師の論釈を引くのみで簡略化されているところから『略文類』『略典』ともいわれる 。

―――以上『顛倒』2014年4月号 No.364より―――

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